1.罪に死にキリストに生きる

・パウロは5章後半で「律法の役割は罪を明らかにすることだ」と述べ、罪の増したところには恵みもあふれると語った。
−ローマ5:29「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」
・しかし反対者は批判する「罪が消えるから何をしても良い、そうであればしたいことをしても許されると誤解する人が出る」。その人々にパウロは「決してそうではない」と述べる。
−ローマ6:1-2「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」
・同じ主題が6:15にも繰り返されている。罪は悪であり、絶対に斥けなければならない。
−ローマ6:15「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」
・パウロは「罪からの解放」とは罪自体が効力を失うことによって生じるのではなく、逆に私たち自身が「罪に対して死ぬ」ことによって生じると説く。そのことの象徴が洗礼(バプテスマ)である。罪を悔い、新しい命を望む者は、洗礼を受ける。洗礼(バプテスマ)の語源はバプテゾー(浸す)である。水の中に沈む時キリストと共に古き自分に死に、水から出る時キリストと共に復活する。バプテスマを通して、私たちはこの世に死に、キリストにあって生きる者となる。
−ローマ6:3-5「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。
・「罪に対して死んだ者が以前と同じ罪の生活を続けられようか、出来るはずがないではないか」とパウロは言う。死んだ者はもはや訴追されない。
―ローマ6:6-8「私たちの、古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。

2.律法の下ではなく恵みの下に生きる

・パウロは「キリストの生と死がキリスト者の生活の原点である」と説く。
−ローマ6:9-11「そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
・それにも関らず、私たちの日常生活は前と変わらない。世の人々はいう「バプテスマを受けて何が変わったのか。あなたのどこが救われたのか」。バプテスマを受けて私たちは原罪から救われたが、肉の体を持つ限り、個々の罪を犯し続けていく。義とされたが、体は元のままだから、肉の欲はなお私たちを襲う。しかし、キリストが肉の欲に勝たれたように、私たちも既に勝利の中にある。だから、「肉の欲と戦いなさい」とパウロは語る。
−ローマ6:12-14「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。
・ここで問題になるのは、罪が赦された後、私たちが依然と同じ状態のままでいてはいけないということだ。罪の赦しは聖化、あるいは清めを伴わなければいけない。バプテスマを受けて、聖化は始まっている。肉の体は日々衰え、霊の体は日々成長している。私たちの生涯とは「約束の地」を目指してこの世を旅する寄留人のようなものだ。
−競灰螢鵐4:16「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。
・クリスチャンの生活は、家庭生活・職業生活・教会生活(信仰生活)のトライアングルの中で営まれている。通常、私たちは家庭生活、職業生活という個人の生活を基礎に置き、その上に神との交わり、教会生活を立てる。だから家庭生活ないし職業生活が不安定化すれば、教会生活も揺らぐ。しかし、聖書が私たちに語るのは、人生の基礎を教会生活、神との関係に置きなさいということだ。神との平和が確立すれば、人との平和も確立する。この世の問題(家庭生活、職業生活)は父なる神に委ね、「まず神の国と神の義を求めなさい、今この時を生かされている意味を考えなさい」と言われている。

3.死に勝利する者

・私たちは肉の死に勝つことはできない。私たちは死んだ肉親や友人を取り戻すことはできない。誰も死の力を打ち負かすことはできない。この過酷な現実は、死の力こそが私たちを捕らえ支配しているようにみえる。しかし、イエス・キリストの復活は、死に打ち勝つまったく別な力が、この宇宙に存在することを啓示している。パウロがローマ6章前半で説くのは、バプテスマ(洗礼)による「霊的死」からの「霊的復活」なのである。私たちの罪にまみれた自我はバプテスマ(洗礼)によって水の中で死んで葬られ、水の中から立ち上がり新しい命に復活する。その時、私たちは、罪による死の支配から解放され、永遠の命を得る。この喜びと希望をパウロは語る。
−ローマ6:4「私たちはバプテスマ(洗礼)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。」
・神学者・喜田川信は著『約束の言葉の信仰』で「洗礼」について語る。「洗礼を受けたからといって私の行いがすっかり変わってしまうとか、魔術的に罪が消されてしまうとか起こるわけではありません。では単に洗礼はキリスト信者になったというしるしなのでしょうか。そうではありません。パウロが言うように、洗礼において、私たちがキリストと共に死に、キリストと共に蘇る、罪と律法の世界から自由と生命と希望の世界に移されるという出来事が起こったことを象徴的に示す行為なのです。」
・同じく神学者・北森嘉蔵は、その著『ローマ書講話』でバプテスマについて述べる。「バプテスマというのはキリストと共に死ぬという象徴として、水の中にいっぺん体がすっかり入るのです。けれども、キリストのよみがえりを象徴するかのように水から引き上げられる。引き上げられるということは蘇るということ、これは改変されるということです。新しい命に変えられるということです。」