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2017年11月29日祈祷会(ローマの信徒への手紙5:1−11、信仰により義とされる)

1.艱難と希望

・4章でパウロは、アブラハムが割礼や律法によらず、ただ信仰によって義とされたと説いた。では、「義とされた者、救われた者はどのようにして生かされていくのか」が5章のテーマだ。パウロは「義とされた者は神との和解が成立し、神による平安が生まれる」と説く。
―ローマ5:1-2「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」
・この神との平和が無ければ、人の心に平安は無く、不安に苛まれながら生きることになる。パウロはローマ8章で「神が私たちの味方ならば、だれが私たちに敵対できますか」と言っている。私たちに敵対するもの、私たちを訴えるもの、私たちを罪に定めるもの、その正体こそ不安なのである(ローマ8:31-34参照)。しかし、神と和解し、平和を与えられた者は、苦難を乗り切る道を与えられる。
―ローマ5:3−4「そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
・艱難に耐えて再臨を待つ、これがパウロの信仰であった。やがて来る世の終わりの前に、イエス・キリストの再臨があり、その前には艱難の時代がある。パウロは当時のキリスト者に対する迫害を「艱難の時代の先駆け」と捉えていた(ローマ8:18−25参照)。そのパウロは「神から与えられる希望は、私たちを欺くことはない」と語る。
―ローマ5:5「希望は私たちを欺くことはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注ぎこまれているからです。」
・世の人は、自分の功績を積むことによって他の人から認められ、平安を得ようとする。しかし、他の人が認めてくれないと、その平安は崩れる。パウロは「人の平安ではなく、神の平安を求めよ。神の前に誇るべき何物のないことを認める時、自分が罪人で弱い者であることを承認する時、神の平安が恵みとして与えられる」と語る。弱い時にこそ強い事を知れば、苦難を喜ぶことが出来る。苦難が弱い自分を強くするために与えられた神の恵みである事を知るからだ。苦難はその意味を見出した時に、祝福になる。

2.神の愛、神との和解

・「私たちがまだ弱かったころ」、私たちが不信仰で、不敬虔で、神に反逆した生き方をしていた時にキリストは私たちのために死んでくださったとパウロは語る。
―ローマ5:6「実にキリストは、私たちが弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」
・世の中にはその人が正しい人だから死のうという人は、ほとんどいない。その人が善人で私のために尽くしてくれたから、その人のために死のうという人ならいるかもしれない。
―ローマ5:7「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。」
・しかし、キリストは私たち、罪人、神に逆らう者、不義な者のために、死んでくださった。
―ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」
・キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていた。熱心なパリサイ派であったパウロは律法を守ることによって救われようと努力していたが、心に平和はなかった。
−ローマ7:18-19「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善を為そうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。
・パウロの救いを妨げていたのは、彼の中にある罪の思いだった。
−ローマ7:22-24「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」。
・この罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にある恐れが、パウロを「律法を守ろうとしない」、キリスト教徒への迫害に走らせる。心に平和がない人は他者に対して攻撃的になる。自分を守るために他者を攻撃するからだ。しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られた。パウロは死を覚悟したが、パウロを待っていたのは死の宣告ではなく、キリストの赦しだった。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられた。
―ローマ5:9「それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのはなおさらのことです。」
・キリストは「不信心な」私、神への反逆者、「罪人の頭」であった私のために死んでくださった。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わらざるを得なかった。
―ローマ5:10-11「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

3.パウロの教えのもたらすもの

・宗教改革者ルターもパウロと同じ体験をしている。1506年、修道司祭となったルターは、熱心に修道生活を送り、祈りを捧げたが、心の平安が得られなかった。どれだけ修業しても平安が与えられないルターは絶望する。彼はその後、ヴィッテンベルク大学で聖書学の講座を受け持ち、詩編やローマ書を教えるようになるが、学びの中で彼が見出したものは、神は「人の正しさを裁く怒りの神」ではなく、「人の救いを熱望する愛の神」であるという真理だった。ルターはロ−マ書の学びを通して、「信仰によって人は義とされるのは、その人が正しいからではなく、ただ神の恵みである」という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。この平安がやがて宗教改革をもたらす。宗教改革はローマ書によって生まれたのだ。
・世の人々は、「苦難が不平を生み、不平は恨みを生み、恨みは絶望を生む」悪循環を繰り返す。しかしパウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と語る。それはパウロが「神との平和」をいただいているからだ。「神に愛されている」と知るゆえに、苦難に苛立つことがない。榎本保郎氏はローマ5章について次のようにコメントする「神は誰にでも宿題を与えておられる。こんな幸せな人は無かろうと思うような人も、体の丈夫な人も、家族の問題、事業の問題などと、いろいろな問題を持っているのであるが、その一つ一つを考えてみれば、神から宿題を与えられているようなものである」(榎本保郎、新約聖書1日1章、p262)。苦難を神からの宿題と考えれば、苦難の意味が違ってくる。神は何故このような苦難をお与えになったのか、それを祈り求め、答えを見出した時に、苦難が神からの祝福に変わっていく。
・ドイツにベーテルという大規模福祉施設がある。心身障害患者5千人と職員5千人、合わせて1万人が共に暮らすドイツ最大の福祉施設で、施設の中に病院はもちろん、看護大学や神学大学まである。この「ベーテル」の創業者はフリードリッヒ・ボーデルシュヴィング牧師だ。彼には四人の子供がいたが、ある時、疫病が流行し、2週間の間に子供たちすべてが死ぬという悲劇に見舞われた。彼は打ちのめされ、もがいた末、神の言葉を聞く「四人の子供が天に召されて行った、自分の子供たちは“神の栄光の子”とされた、しかし自分の周りにはまだ神の栄光を受けていない子供たちがいる。その子供たちに仕えるために4人の子は天に召されたのだ」。ボーデルシュヴィングは西ドイツ・ビーレフェルトの郊外に小さな家を求めて、そこにてんかんの子供たちを集めて、共同生活を始める。1867年のことだ。当時、てんかんは差別の対象になっていた難病だった。彼はその家を「ベーテル、神の家」と名づけた。この出来事が、一人の牧師が4人の子を失うという悲劇を通して起こされたことに注目すべきだ。神の子とさせられた者は、悲しみをも祝福に変えていく力を与えられる。四人の子の死という悲しみが、数千人の子どもたちの命を救う。ここに神の摂理がある。
・福岡の久山療育園も、川野直人という一人の牧師の家庭に重度の心身障害を持つ子が与えられたのがきっかけになって生まれた施設だ。これも「神との平和を与えられた」者の生き方だ。「神に義とされた者」は「神との平和」が与えられ、「神との平和」が与えられた者は、「隣人との平和」を求める。私たちが救われているか、見分けるのは簡単だ。自分と同じくらいに隣人のことを考えているか、他者のために損をしても良いと考えているか、他人の悪口を言わないか、この三点で判定できるのではないか。神と和解した者は隣人と和解する、そのような生き方に私たちは招かれている。
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