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トップ  >  ローマ人への手紙  >  2017年11月22日祈祷会(ローマの信徒への手紙4:13−25、信仰によって実現される約束)


1.信仰によって実現される約束

・人を救うは、律法か、信仰か。良い行いが人を救うのか、あるいは神への信仰が人を救うのか。パウロは、「律法に基づく行為こそ救いの要件だ」と譲らないユダヤ人信徒に迫る。
−ローマ4:13-14「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。」
・律法を行うだけでは、神の怒りを招く。なぜなら、人は律法を守る自分の正しさに固執するあまり、他者を傷つけ、争う。他方、律法のないところには違反もなく、争いも生じない。律法でなく信仰によってのみ平和が訪れる。
−ローマ4:15-16「実に律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによってアブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼は私たちすべての父です。」
・創世記にみるアブラハムの信仰はぐらついている。老齢夫婦の妊娠・出産を信じ難いのは当然であり、神の前での笑いは半信半疑での笑いであろう。
−創世記17:15-17「神はアブラハムに言われた。『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。私は彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。』アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」
・不信のアブラハムに、神は高齢の妻を通してイサクを授けられた。すべてのことはアブラハムの努力ではなく、神の恵みでなされた。故に、アブラハムは恵みに感謝して割礼を受けた。アブラハムは不可能を可能とする神の力を見た故に信じた。
―ローマ4:17-18「『私はあなたを多くの民の父と定めた』(創世記17:4)と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前で私たちの父となったのです。彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていた通りに、多くの民の父となりました。」

2.信じることのできない者にしるしを与えられる神

・「人には出来ないが、神には出来ないことはない」、これを信じていくのが信仰である。
−ヨハネ11:25-26「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。 生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。
・しかし、人間は信じ切ることが出来ない。マルタも兄弟ラザロの復活を信じなかったし、アブラハムもイサクが生まれるまでは信じていなかった。しかし、神は信じきれない私たちをも信じるように導いて下さる。十字架と復活の出来事も、理性では信じることが出来ない私たちを信じる者とさせていただいた。
−ローマ4:19-20「その頃、およそ百歳になっていて、すでに自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはありませんでした。むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」
・アブラハムは「無から有を創造される」神を信じた。だから彼の信仰が義と認められたとパウロは語る。
−ローマ4:21-22「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたのです。」
・信仰によって義とされたから、私たちは神の命じられる律法を生きることを大事にするのだ。律法が人を救うのではないが、救われた者には律法が生き方の指針となる。
−ローマ4:23-25「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、私たちのためにも記されているのです。私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます。イエスは私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです。」

3. この物語は私たちに何を語るのか

・パウロは「アブラハムは希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じた」(4:18)と語る。直訳すると「望みのない所に、なおも望みを持って信じる」となる。その時、アブラハムは100歳、妻サラは90歳であり、人間的に見れば、アブラハムの肉体は既に死んでいたし、サラの肉体も死んでいた(「サラの月経は閉じていた」創世記18:11)。
−ローマ4:19「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした」。
・アブラハムは現実にはその信仰は弱まっている。彼は半信半疑である。しかし、アブラハムは疑いながらも、「死者に命を与える神=肉体的に死んでいるはずの老夫婦から新しい命を生み出す方」をひたすら求めた。それは「存在していないものを呼び出して存在させる神」(4:17)を求めることでもある。「存在していない=現在はいない相続人」を、「呼び出して存在させる=いるようにしてくださる」、不可能を可能にする神をアブラハムは信じた。
・「肉体的に死んだ高齢者に子を与える神」は、「十字架で死んだイエスをよみがえらせる神」と同じ神であり、「アブラハムの信仰は私たちと同じ信仰なのだ」とパウロは語る。イエスが十字架上で「わが神、わが神、何故」と叫んで死んでいかれたのも、絶望の中での神への希望の表明だ。その絶望の中から神はイエスを起された。パウロはイエス・キリストの十字架と復活という出来事を通して、アブラハムの信仰の出来事を見ている。だからアブラハムの救いは、私たちの救いでもあると彼は断言できる。
−ローマ4:23-25「それが(アブラハムが信じたことが)彼の義と認められたという言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、私たちのためにも記されているのです。私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます。イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです」。
・パウロは4章の言葉を通して、ローマのユダヤ人信徒を批判する「アブラハムが恵みによって救われたとすれば、アブラハムには何の誇りもなく、その子孫であるあなたがたも誇るものは何もないはずではないか」。それなのにあなたがたは、「自分はユダヤ人だ、選ばれた民だ」と誇っている。パウロは問う。「義とされるというのは罪あるままに神に赦していただくことだ。神に赦された人は他の人も赦す。もしあなたがたが異邦人と和解できないとしたら、あなたがたはイエスが私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたことを、本当には信じていないからではないか」とパウロは迫る。
・アブラハムは死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じた。「存在していないものを呼び出して存在させる神」、「無から有を呼び出される神」、「不可能を可能にされる神」を、アブラハムは信じ、パウロは信じ、そして私たちも信じる。それは目に見える現実の中に何の可能性もない時に、なお信じる信仰だ。イエスも何の光も見えない中で神に希望を委ねて死んでいかれたからこそ、神はイエスを起されたのではないか。「信仰は常に自然的諸可能性の墓場を乗り越えて成長する」(E.ケーゼマン)。人間の力が絶えた所から神の力が働く。
−ローマ8:24-25「私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。
・パウロは私たちに問いかける「もしあなたに信仰があるならば、恐れずに現実を見つめ、自分が闇の中にいることを認め、その闇の中で“光あれ”と言われると、“光が生じた”創造の出来事を思い起こせ。100歳のアブラハムと90歳のサラに子を与えた神の力を信ぜよ。十字架で死んだイエスを起こした神の力を見よ」と。信仰は私たちの生活の現実の中で実際に働く力だ。「復活の主を信じる」とは、「無から有を呼び出される神」を信じることだ。そして信じた者には、「生きる勇気」が与えられるのである。福音伝道者としてのパウロの生涯は、非難、中傷、陰謀、鞭打ち、投獄の連続であった。しかしパウロは「私は福音を恥とはしない」と言い切る。彼は神の力を本気で信じていたからである。
−ローマ1:16-17「私は福音を恥としない。福音はユダヤ人を始め、ギリシヤ人にも信じるすべての人に救いもたらす神の力だからです。福音には神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」
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