1.信仰による義

・パウロは1章18節から3章20節までで、ユダヤ人も異邦人もすべての人は神の前に罪人であると語った。パウロが手紙冒頭で異邦人の罪を語った時、パウロの告発は異邦人だけの問題と思い、安心していたユダヤ人も、同じく罪人であると指摘され、初めは驚き、次に腹を立てた。
−ローマ3:9-11「では、どうなのか。私たち(ユダヤ人)には優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない』」。
・パウロは「人は神の戒めを守ることが出来ない罪人」だと指摘し、「それを知るために戒め(律法)が与えられた」と語る。「人は神を愛せないし、人を愛せない。律法によっては、罪の自覚しか生じない」と彼は断言する。
−ローマ3:20「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」
・「人は律法によっては救われない。だから、神はキリストを遣わされた」とパウロは考える。
−ローマ3:21-24「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
・パウロは「人はキリスト・イエスによる贖いの業を通して、無償で義とされる」と語る(3:24)。この贖いは「罪の償い」という旧約祭儀から来る言葉だ。次の3章25節では「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物とされた」と記す。「罪を償う供え物」、ギリシア語「ヒラステーリオン」は、神殿の至聖所にある「契約の箱の蓋」を指す(出エジプト記25:17)。旧約の神殿祭儀では犠牲の動物をほふり、その血を契約の箱に振りかけることで罪の贖いが為される。人間の罪が身代わりの犠牲の血で清められる。しかし、パウロは「この旧約祭儀はキリストの十字架を通して不要になった。行いによる義ではなく、十字架で血を流されたキリストを信じることにより義とされる」と語る。
−ローマ3:25-26「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
・「人は、神が示されたこの救いの業を信じることを通して、価なしに救われる道が開けた」とパウロは語る。新共同訳は「イエスを信じる者は義とされる」と訳すが、原文は「イエス・キリストの信仰によって」である。すなわち「イエスが命をかけて示した神に対する従順な生き方を通して救いが生じる」(廣石望、代々木上原教会説教から)、あるいは「イエス・キリストを通して現れた神の真実」(K.バルト訳)が人間を救う。新共同訳のように「イエスを信じる信仰」によって人が救われるとしたら、人間の信仰の有無が救済条件になる。しかし、人間の信仰が人を救うのではなく、神の恵みが人を救う。
−上村静「イエス、人と神へ」から「教会は『人は皆罪人なので、キリストへの信仰に依らなければ救われない。キリスト教徒にならなければ断罪される』と語った。しかし、イエスの伝えるメッセージは、『人は良いものではないが、そのままで生かされてある』というものであった。イエスの復活顕現を体験した弟子たちは、『キリストの出来事によって人の罪は赦される』と信じた。イエスも弟子たちもパウロも他の初期キリスト教徒たちも、それを宣べ伝えようとした。ここにイエスと原始教会の本当の意味での連続性がある。しかし、やがて教会は、福音を告げ知らせるだけでなく、その受容(信仰)を救済の条件にしてしまう。それはもはや、良い知らせではない」。
・パウロは「無条件の神の赦し」を述べており、そこに人の行為は無関係だ。あくまでも神の無条件の赦しが人間を救う。そこでは人間の側に何も誇るものが生じず、あるのは感謝だけだ。信仰は救いの条件ではなく、救われたことに対する人間の応答なのだ。
−ローマ3:27-28「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」。

2.信仰の法則

・人は神の無条件の赦しの中にある。「では、律法は無になるのか。そうではなく、義とされたことにより、律法が信仰者の生きる道として示される」とパウロは語る。
−ローマ3:30-31「この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。私たちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」。
・ここにおいてパウロはイエスの真正な後継者であることが見えてくる。
−マタイ5:17-19「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」
・このローマ人への手紙を、私たちに宛てられた手紙として読む時、真理が見えてくる。私たちは言う「それではクリスチャンの優れた点は何か。バプテスマの利益は何か」。クリスチャンになることの意味は、「自分の救いを求めることではなく、救いの言葉を委ねられた」ことだ。自分の救いだけを求める時、人は救いから落ちる。自分の救いは神に委ねれば良い。そして与えられた務めをする。
−マタイ25:40-45「王は答える『私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』・・・王は答える『この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。』」
・ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」によれば、福音書が書かれた紀元100年当時のキリスト教徒は数千人という小さな集団だった。その彼らが紀元350年頃には3千万人、当時の人口の50%を超えたとされる。何故彼らは増えたのか、それは「キリスト教の中心教義が人を惹き付け、自由にし、効果的な社会関係と組織を生み出していった」からだとスタークは述べる。その中心教義の一つが、「飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、病人を見舞え」(マタイ25章)という言葉だ。ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、時には人口の1/3〜1/4を失わせるほどの猛威を振るった。人々は感染を恐れて避難したが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬した。何故ならば聖書がそうせよと命じ、教会もそれを勧めたからだ。この「食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく」信徒の行為が、疫病の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせた。社会保障も健康保険もない中で、教会は信徒の奉仕という形でそれを提供した。彼はテキストの最後に述べる「キリスト教が改宗者に与えたのは人間性だった」と。

3.信仰義認の真理が宗教改革を起こさせた

・「信仰義認」の真理は、パウロの深い悔い改めから見出された真理だ。パウロはかつてキリスト教会への迫害者だった。彼は「この道の者たち(キリスト信徒たち)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえした」と告白する(使徒22:4)。パウロは殺人さえ犯している前科者だった。しかしそのパウロでさえも神はキリストを通して赦して下さった。パウロは告白する
-ローマ5:10「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。
・この信仰義認の真理を見出して、宗教改革を行ったのはルターだった。ルターもパウロと同じ経験をしている。彼は、若い時には、厳格な修道院生活を送り、毎日を労働と祈りで過ごしたが、どんなに修行しても、平安は与えられず、彼は激しい罪意識を抱くようになる。彼にとって神は、怒りに満ちた、裁きの神だった。しかし、そのルターに、突然、光が与えられる。ローマ書の学びを通して、彼は「人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によってのみ救われる。人間を義とするのは神の恵みである」という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。パウロと同じように、律法や行いを通して救いを求めた時、神は怒りの神、裁きの神として立ちふさがられたが、すべてを放棄して神の名を呼び求めた時、世を救おうとされる恵みの神に出会った。