1.神を認めないことの罪

・ロ−マの信徒たちへの長い挨拶を終えたパウロは、すぐにロ−マの信徒たちの不義に言及し、彼らの行為に対する神の怒りを突きつける。1章で展開されるのは異邦人の罪である。異邦人の最大の罪は、「神を知りながら、神を神として崇めない」ことだとパウロは言う。
−ローマ1:18−19「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」
・神は、外にあっては自然を通して、内にあっては良心を通して、自己を示された。
−ローマ1:20−21「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って彼らには弁解の余地はありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって空しい思いにふけり、心が鈍く、暗くなったからです。」
・神の代わりに、彼らは偶像を拝む。偶像とは見える神であり、それは自己の欲望の具体化だ。偶像礼拝とは自己礼拝だ。神は、彼らをその欲望のままに放置されることによって、彼らを裁かれる。
−ローマ1:22−23「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」
・パウロはローマ教会の中に、異邦人信徒とユダヤ人信徒の争いがある事実に心を痛めていた。彼はまず異邦人の罪の源に偶像礼拝があることを指摘した。マルチン・ルターは「金であれ、名誉であれ、地位であれ、またたとえ絶望であれ、憎しみであったとしても、それにひれ伏す時、それが彼の偶像となり、彼はその偶像を礼拝している」と語った。

2.偶像礼拝の罪〜性的乱れ

・偶像礼拝は自分一人では生きられない人間の弱さがもたらすものだ。出エジプトの民は指導者モーセが山に登り、40日間も戻らない不安の中で、目に見える神として、「金の子牛」を造った。
−出エジプト記32:1-6「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです・・・アロンは・・・のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った・・・彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」
・「立っては戯れた」、金の子牛の前で性的乱交が行われたことを示唆する。偶像礼拝は必ず性的混乱として現れる。性が人間の欲望の根底にあるからだ。信仰の乱れが性の乱れとなる。
−ローマ1:26-27「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」
・当時のギリシア・ローマ世界においては同性愛が盛んであり、パウロはこれを創造の秩序を犯す行為だと考えている。キリスト教は伝統的に同性愛を禁止してきたが、その根拠となってきたのが、このローマ1:26-27である。一方、近年の欧米諸国においては、同性愛も異性愛と同様に生まれつきの性的指向であり、不当な扱いをされるべきではないとの認識が広まっている。聖公会やルーテル教会では同性愛容認の声が強く、同性愛者が牧師や司教になり、保守派との分裂騒ぎが起きている。

3.偶像礼拝の罪〜対人関係に対する悪

・偶像礼拝はまた、対人関係に関する悪としても現れる。1章29節以下に悪のリストが列挙されているが、そこにあるのは、他者に対する不義や貪り、妬みや争い、無慈悲、傲慢、一言で言えば「自分さえ良ければ良い」というエゴイズムが人間世界を支配しており、このエゴイズムも「神を神としない偶像礼拝」から生じるとパウロはみている。
-ローマ1:29-32「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」
・このエゴイズムは現代人も克服することはできない。私たちは、他人が成功すれば妬み、他人が失敗すれば喜ぶ存在であり、見返りなしには人を愛せない。エゴイズムもまた原罪、神なしに生きる私たちの問題だ。パウロは異邦人社会における人間の醜さを見て、そこに神に背いた人間の罪を認めた。神を認めず、したいことをすることを、人間は「自由」と呼び、それを追及していく結果現れるものは、お互いを傷つける悪であり、それらの悪が人を悲惨に陥れて行く。神という絶対者のいない所では、自分が神となり、自分の欲望が露わに表に出て、それが性的放縦やエゴイズムとなる。人間は神から離れることによって罪を罪として認識できなくなる。創世記におけるアダムとエバは神に背いた自分たちの罪を認めることが出来ず、それを他人のせいにした。私たちが人に罪をかぶせる時、私たちも神から離れている。
−創世記3:12-13「アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』。主なる神は女に向かって言われた『何ということをしたのか』。女は答えた『蛇がだましたので、食べてしまいました』」。
・自己の欲望が他者との関係の中で、争いとなり、それが目に見える罪となっていく。私たちの苦しみの多くは人間関係の乱れから生じ、人間関係の乱れは神との関係の乱れから来る。
−ローマ1:28、32「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました・・・彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
・哲学者キルケゴールはこの箇所を、神と警官の違いに喩える。「警官なら悪いことをすれば、駆けつけて悪い事をした者を逮捕する。だが神は警官のように直ちに逮捕したりせず、放置して成り行きに任せられる。だから、神は怖い」とキルケゴールは語る。神が「任せる」というのは神に捨てられることであり、神の怒りは本当に恐ろしい。

4.他者を裁く罪

・「神を神と認めないところに異邦人の罪があった」とパウロは指摘した。では「神を神として敬い、神の戒め(律法)を大事にする」ユダヤ人は罪から解放されているのか。「そうではない」とパウロは一転してユダヤ人の罪を指摘する。それが2章からの主張だ。
−ローマ2:1「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」
・パウロの最終結論は「全ての人は罪びとである」というものだ。
−ローマ3:9-12「では、どうなのか。私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』
・パウロは厳しい言葉をローマの信徒に送る。読んだ人は不愉快になったであろう。しかし、その厳しさゆえに、このローマ書はたびたび歴史を塗り替える働きをしてきた。何故ならば、救いとは先ず、「罪を知る」ことから始まるからだ。近代を切り開いた宗教改革は、ルターがこのローマ書の研究を通して、罪の問題に目を開かれ、教会改革を行ったことから始まった。「罪を知る」ことが救いの第一歩であるからこそ、パウロはローマ教会内のユダヤ人信徒、異邦人信徒に厳しい言葉を投げかける。
・パウロはローマ教会の人々に厳しい言葉を投げかけた。しかし人は批判を通しては悔い改めることができない。いくら罪を指摘されても反発するだけだ。パウロは3年後にローマに行き、教会の人々と会うが、使徒言行録によると、「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」(使徒28:24-25)とある。パウロの説得は失敗した。しかしやがてローマ教会の人々はパウロの福音を受け入れる。手紙ではわからなかったパウロの生きざま、イエス・キリストの福音に生かされた生きかたを目の当たりに見たからだ。人を悔い改めに導くものは、人格を通して示された愛だ。人は、自分がキリストの愛によって赦されたと知った時、自分の罪を知り、キリストの前に跪くのだ。