すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.神殿崩壊の予告と終末預言

・マルコ13章は小黙示録と呼ばれ、イエスが神殿崩壊とそれに続く終末を預言される内容になっている。物語はイエスの神殿崩壊の預言から始まる。
−マルコ13:1-2「イエスが神殿の境内を出て行かれる時、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石も崩されずに他の石の上に残ることは無い。』」
・イエスは前に宮清めをされて、祭司たちを批判された。当時の神殿は既に内部から崩壊しており、もはや神を礼拝する家ではなかった。神殿崩壊の預言はこの宮清めに続く言葉であろう。この預言がイエス告発の直接の契機になっている。
-マルコ15:29-30「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』」。
・エルサレム神殿が信仰の中心であったユダヤ教を奉じる弟子たちにとって、神殿崩壊は世の終わりだ。「そんな大変なことがいつ起こるのか」、弟子たちは尋ねる。
−マルコ13:3-4「イエスがオリ−ブ山で神殿の方を向いて座っていると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現する時には、どんな徴があるのですか。』」
・それに対しイエスが答えられる。イエスの時代もローマに対する反乱が頻発し世情は騒然としていた。
−マルコ13:5-6「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、「私がそれだ」と言って、多くの人を惑わすだろ。』」
・ローマに対する頻発する反乱は、紀元66年には戦争になっていき、70年にはエルサレムはローマ軍に包囲され、ユダヤの敗色が濃くなってくる。
−マルコ13:7-8「『戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。』」
・ここに語られているのはイエスの神殿崩壊預言を基礎にしたマルコの体験報告だ。マルコ福音書が書かれた紀元70年頃、エルサレムは戦場となっており、ローマ軍がエルサレムを包囲し、陥落は時間の問題だと考えられていた。イエス生前からローマに対する反乱の動きはあったが、イエス死後それが加速し、「ガリラヤのユダ」や「チウダ」等メシアを自称する多くの扇動者が現れてローマに対する武装蜂起を呼びかけ、また世界的な飢饉や大規模地震が多発し、世情は不安定化していた。そのような中でユダヤ人たちの不満が対ローマ戦争という形で燃え上がる。紀元66年に始まった戦争では当初はユダヤ側が優勢に立つが、ローマ軍の反撃により次第にユダヤ側は追い詰められ、紀元70年にはエルサレム城内にローマ軍が侵攻し、街は破壊され、神殿も燃やされてしまう。

2.弟子たちに対する迫害の予告

・当時の教会はユダヤ教からは「異端」として迫害され、ローマ帝国からは世を乱す「邪教」として迫害されていた。エルサレム教会の指導者「主の兄弟ヤコブ」は、紀元62年にエルサレムで処刑されている。紀元64年にはローマの信徒たちがネロ帝により迫害され、教会の柱であったペテロやパウロも処刑された。その中で、エルサレム神殿さえも崩壊しようとしている。マルコは迫害の強まりを予想している。
−マルコ13:9「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、私のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。
・マルコは迫害の中にある信徒に「恐れず主を証しせよ」と教える。イエスが迫害されたように、後に続く者が迫害されるのは当然だと。「証しする=マルチュリア」と言う言葉が「殉教する」に同意語化する。
−マルコ13:11-13「引き渡され、連れて行かれる時、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。その時には、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ・・・私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。

3.大きな苦難を予告する

・14節以下の言葉「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら・・・その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」はユダヤ戦争当時の状況を反映している表現だ。「憎むべき破壊者」は元来はダニエル9:27からの引用である。紀元前167年シリア王エピファーネスはエルサレム神殿にゼウス像を持ち込み、これが契機となってマカベア戦争(シリアからの解放戦争)が起きた。今、同じようにローマ軍がエルサレムを包囲し、神殿に入ろうとしている。
−マルコ13:14-16「『憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たらー読者は悟れーそのときユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。』」
・マルコは教会の信徒に「エルサレムから逃げよ、ここで死ぬな」と叫んでいる。
−マルコ13:17-18「『それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが、冬に起こらないように祈りなさい。』」
・ローマ軍がエルサレムを包囲した時、多くのユダヤ人たちはエルサレムが陥落するはずがないと思っていた。エルサレムは三方が谷に囲まれた天然の要害であり、一つだけ残された北側の入り口も三重の城壁に囲まれていた。それ以上にエルサレムは「神の都」であり、神が救済されると信じていた。ところがエルサレムをローマ軍が包囲して、長期の籠城戦になると、城内では食べ物はなくなり、自分の子を殺してその肉を食べるという悲劇さえ生まれ、エルサレムから脱出しようとする人たちは裏切り者として処刑された。エルサレム陥落後は、ローマ軍が押し寄せ、数万人を超えるユダヤ人が殺され、神殿は破壊され、エルサレムは廃墟とされた。終末としか思えない悲劇が起きた。
―マルコ13:19-20「『それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださるのでなければ、誰一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。』」
・21節以下は「エルサレムに留まって共に戦えというユダヤ人同胞の誘いに乗るな、今は終末の時ではない、逃げよ、死ぬな」とのマルコの訴えであろう。マルコはイエスの口を借りて信徒に呼びかけている。
−マルコ13:21-23「『そのとき、「ここにメシアがいる」「見よ、あそこだ」と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切のことを前もって言っておく。』」
・マルコは国家存亡の危機にある信徒たちに、イエスの言葉を伝え、その言葉によってよって教会は生き延びた。マルコは「世の終わり」としか思えない体験の中でイエスの言葉を聞いた。
−マルコ13:30-31「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」。
・マルコの体験を私たちも体験した。私たちの祖国はアメリカと太平洋戦争を戦い、1944年には日本本土への空襲が始まり、日本本土は焼け野原になり、1945年6月には沖縄も奪われ、敗色濃厚になる。しかし日本の指導者たちは「本土決戦」を唱え、「1億玉砕」を国民に命じる。そして最終的な破滅、原爆投下により日本は降伏する。原爆投下を体験した人々は世が終わったと考えたことだろう。太平洋戦争末期の日本の状況は、紀元70年当時のエルサレムとそっくりだ。
・マルコは解釈されたイエスの言葉を伝える「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない・・・これらは産みの苦しみの始まりである」(13:7)。そして最後にイエスの言葉を伝える「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(13:31)。マルコが自分の置かれた状況の中でイエスの言葉を聞いたように、私たちも自分の置かれた状況の中で、イエスの言葉を聞いていく。癌末期を宣告され、残された命がいくばくもないことを知らされた人は、「まだ世の終わりではない」(13:7)という言葉を慰めの使信として聞く。事業に失敗して破産し、債務者に責めたてられている人は、「これらは産みの苦しみの始まりである」(13:8)との言葉を励ましとして聞く。そして慰められ、励まされて立ち上がった人々は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13:13)との救済宣言を聞く。
・終末信仰とは、何年何月に「世の終わりが来る」と言うものではない。「天地は滅びる」、この世の権威や地位や制度が滅びることはありうる、だから世の出来事を絶対化しない。事業の失敗や破産、失業、離婚による家族の崩壊、重篤な末期癌も、あるいは心の病さえも終末のしるしではなく、「産みの苦しみの始まり」なのだ。そして私たちは、「私の言葉は決して滅びない」というイエスの宣言を聞く。主により頼む者は主の憐れみを受ける。イエスの愛に留まることの出来る者は、どのような状況下でも決して絶望せず、希望を持ち続けることが出来る、それを信じることが「終末の信仰」なのである。
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