すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.最も大事な戒め

・サドカイ派との「復活論争」に感心した律法学者が、イエスに、「最も重要な掟は何か」と質問した。彼はイエスをわなにかけようとするのではなく、本当に「モ−セの律法の中で最も重要な掟は何か」について、イエスに尋ねたかった。当時の律法は聖書に書かれた戒めはもちろん、ラビたちの解釈した戒めも加えられ、イエス時代には613の戒めがあったという。あまりにも多く、どの戒めを最も大事なものとして守ればよいのかが、ユダヤ人にさえ解らなくなっていた。
―マルコ12:28「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て尋ねた『あらゆる掟の中で、どれが第一でしょうか。』」
・イエスは、第一の掟として申命記6章4節「神を愛せ」をあげられ、第二の掟としてレビ記19章18節「隣人を愛せ」をあげられた。
―マルコ12:29−31「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟はこれである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。』」
・律法学者はイエスの教えに感嘆し、思わず復唱した。イエスは彼をほめられた。
―マルコ12:32−34「律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃる通りです。「神は唯一である。ほかに神はない」とおっしゃったのは本当です。そして、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献げ物や生贄よりも優れています。』イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はいなかった。」
・「どの掟がいちばん重要でしょうか」と問う律法学者に対して、イエスのあげられた第一の掟は、申命記6章4節「聞け、イスラエル」で始まる「シェマー」の教えだった(「聞け、イスラエル」が、へブル語「シェマー」)。ユダヤ人の間で「シェマー」と言えばこの教えを指すほど、基本的な教えである。
―申命記6:4−8「聞け、イスラエル。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、これを繰り返し語り聞かせなさい。更にこれをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額につけ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
・第二の掟「自分を愛するように隣人を愛しなさい」は、「隣人愛」に関する教えであり、第一の掟「シェマー」と結び合わせた処に、イエスの新しい教えがある。そして最後に「この二つの掟にまさる掟は他にない」とイエスは結ばれた。聖書の教え全体、イエスの教え全体がこの二つの教えにかかっている。並行記事ルカ10章ではこの問答に続いて、イエスが「良きサマリア人の喩え」を語られたとする。「聞くだけではなく、行う」ことの大事さを教える話だ。注解者は述べる「私たちが自分自身に寛容であり、時間を割き、関心を持ち、自分自身のために言い訳をし、深く自分の幸せを願っている。それと同じ仕方で隣人にもそのような態度を取りなさいとイエスは教えている」(L.ウィリアムソン、マルコ福音書注解、p365)。

2.ダビデの子についての問答

・イエスは神殿で教えておられた時、人々に問われた「どうして人々はメシアをダビデの子と言うのか」。イエスがエリコを通られた時、盲人バルティマイは叫んで言った「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」。イエスがエルサレムに入城された時、人々は歓呼して叫んだ「ダビデの子にホサナ」。人々はイエスをメシアかもしれないと思い、イエスを「ダビデの子」と呼んだ。
―マルコ12:35−37「イエスは神殿の境内で教えていた時、こう言われた。『どうして律法学者たちは、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。「主は、私の主にお告げになった。私の右の座に着きなさい。私があなたの敵を、あなたの足もとに屈服させる時までと。」このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。』大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。」
・イエスの時代、人々は救い主メシアの来臨を待望していた。そして、メシアはダビデの子であることは、イザヤ書をはじめ旧約聖書において、預言されていた。さらに「ダビデの子」という呼称は二重の意味を持っており、その一つは「ダビデの子孫」であり、もう一つは「ダビデのような王」である。ダビデの子としてのメシア、イスラエルの解放者というのが、メシア待望の信仰であった。しかし、イエスはそのようなメシア待望論を否定して、真のメシアは、「この世の王として来るのではなく、この世の王をはるかに超えた、天にいます父なる神の右に座する者」だと述べられた。
−ローマ1:3-4「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」

3.律法学者を非難する

・イエスは言われた「あなた方は今、メシアを待ち望んでいる。しかし、あなた方の指導者である律法学者は本当にメシアを待ち望んでいるのだろうか」。そしてイエスは律法学者を批判される。彼らは尊敬されることを求めるが、実際の彼らは貪欲であり、偽善的だと。
―マルコ12:40「イエスは教えの中でこう言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』」
・マタイ福音書は更に激しいイエスの批判を掲載する。
―マタイ23:1−5「律法学者たちやファリサイ派の人々はモーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。』」
・ローマの植民地支配の下、民衆は重い税や賦役の負担で苦しんでいた。しかし、社会の指導者である律法学者たちは人々のうめきに耳を傾けず、自分のことばかりを考えていた。長い立派な着物を着て、自分の偉さを見せびらかし、広場で挨拶されて鷹揚に頷き、会堂では当然のように上席に座る。民が飼うもののない羊のように弱っているのに、この羊飼いたちは「群れを養わず自分自身を養っている」(エゼキエル34:2)。世の終わりが近づこうとしているのに、何の危機感も持たず、満足しきっている。彼らこそ「神の国から最も遠い」とイエスは言われた。

4.やもめの献金

・イエスは神殿の賽銭箱に、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を捧げるのを見られた。
―マルコ12:41−42「イエスは賽銭箱に向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが一人のやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クアドランスを入れた。」
・イエスは弟子たちに、このやもめの献金を褒められた。やもめの献金はレプトン銅貨2枚、レプトンは「1デナリオンの128分の1」、レプトン銅貨2枚では64分の1デナリオンになる。1デナリオンが労働者の日当だったから、このやもめの献金は今日で言えば50円玉2つになろうか。
―マルコ12:43−44「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱の中に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」
・「持たない者の後ろ盾は神しかいない」。貧しいやもめはレプトン銅貨二つしか持たない故に全てを献金できた。レプトン一つ(1日分の賃金の1/128)を残してもパンは買えない。仮に彼女が10デナリ(10日分の賃金)を持っていたら半分の5デナリを自分のために残しただろう。持たない故に神に頼り、そこから神の国が見えて来た。神に頼るしか道がないから頼る時、「必要なものは神が与えてくださる」、「これまで養ってくださった神はこれからも養ってくださる」との信仰が生まれ、何者にも代えがたい「神の平安」が与えられる。やもめは自分の小さい献げものをイエスが見ておられたことを知らなかった。イエスがその行為に「アーメン」と言われたことも知らなかった。まして2000年経ってそれが世界中の教会で献げることの模範として語られるとは夢にも思わなかった。このやもめはあふれるばかりの祝福をいただいたのだ。
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