すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マルコ福音書(二巡目)  >  2017年7月12日祈祷会(マルコによる福音書12:1-27、ぶどう園と農夫の喩えと皇帝への税金)

1.ぶどう園と農夫の喩え

・イエスは祭司長、律法学者、長老たちと権威について議論され、一つの喩えを彼らに話された。
―マルコ12:1-3「イエスは喩えで語り始められた。『ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせずに帰した。』」
・ぶどう園と農夫の喩えは、イザヤ5章が原典だ。「私の愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいいぶどうであった」(イザヤ5:1-7)。神の目にイスラエルは実を結ばないぶどう畑だった。イエスはイザヤ書の記事から、「神をぶどう園の主人に、祭司長や律法学者、長老たちを悪い農夫」に喩えて話された。
―マルコ12:4-5「『そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更にもう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。』」
・イエスは預言者をぶどう園の収穫を取り立てるため派遣され、殺された僕たちに喩え、ユダヤ教指導者たちを派遣された僕たちを迫害し殺す農夫たちに喩えられた。最後に主人は息子を送ったが、彼も殺された。
―マルコ12:6-8「『まだ一人、愛する息子がいた。「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。「これは跡取りだ。さあ、殺してしてしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」そして、息子を殺しぶどう園の外に放り出してしまった。』」
・一人息子を殺されたぶどう園の主人は、反逆した農夫たちを殺し、ぶどう園を他の者に与えたとイエスは語られた。
―マルコ12:9-11「『さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」』」
・祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々は、イエスを憎んだが、群衆を恐れ、その場で逮捕しなかった。
―マルコ12:12「彼らは、自分たちに当てつけてこの喩えを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが群衆を恐れた。そこで、イエスをその場に残して立ち去った。」
・イエスは「ぶどう園の主人は、戻ってきて、この農夫たちを殺し、ブドウ園を他の人たちに与えるに違いない」(12:9)と語られたと伝える。しかし、「十字架上で自分を殺す者たちのために祈られたイエスが、相手を裁き、その死を望まれるだろうか」との疑問が出る。文献学的に、9節後半以降はもともとのイエスの言葉にはなく、初代教会が自分たちの信仰の立場から書き加えたものであろうと推測される。
・「農夫たちは殺され、ぶどう園は他の者に与えられる」は、イエスの死から40年後に起こった対ローマ武装闘争(ユダヤ戦争)でユダヤ側が敗北し、エルサレムが滅ぼされたことを暗示している。戦争でユダヤが敗北し、神殿が破壊されたのは、神のひとり子であるイエスを殺したことの報いだと教会は信じ、その信仰をここに書き加えた。イエスは祭司たちに悔い改めを求められたが、その裁きは父なる神に委ねられた。しかし、弟子たちはイエスを殺したユダヤ人を裁き始め、イエスの言葉の書き換えが後のユダヤ人迫害(キリストを殺した民として)へと繋がっていく。福音を裁きの言葉に変えてはいけないのである。

2.皇帝への税金

・ファリサイ派やヘロデ派の人々は、イエスを罠にかけるために、「皇帝に税金を納めるべきか否か」という、当時の社会の中で賛否が分かれた問いをイエスの前に持ち出した。律法に熱心な人々は、皇帝に税を納めるのは異教の支配に服する偶像崇拝だとして拒否し、反乱を起こしていた。
―マルコ12:13-14「さて、人々はイエスの言葉尻をとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の数人をイエスの処に遣わした。彼らは来てイエスに言った。『先生・・・皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか。』」
・イエスは彼らの目論見を見抜き、彼らにロ−マのデナリオン銀貨を持って来させ、「銀貨に刻まれた肖像は誰か」と質問された。彼らが「皇帝の肖像です」と答えると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられた。当時のデナリオン銀貨にはロ−マ皇帝の肖像と「神であるアウグストウスの子、ティベリウス・カエサル・アウグストウス」と刻んであった。
―マルコ12:15-17「イエスは彼らの下心を見抜いて言われた。『なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。』彼らがそれを持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らが、『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に。神のものは神に返しなさい』彼らはイエスの答に驚き入った。」
・イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。信仰の本質にかかわる出来事(神のもの)と本質ではない出来事(皇帝のもの)を区別し、本質でない出来事については世に従いなさいと言われた。初代教会はこのイエスの言葉を基礎に、税や貢物を国家に納めるべきかを議論した。
−ローマ13:7「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」。
・神を証しする生活とは、良き市民として生きることだ。「皇帝のものは皇帝に」、私たちは世の秩序に従う。何故ならば、世の秩序もまた神の定めたもうものだからだ。ペテロは「神を畏れ皇帝を敬いなさい」と教える。最初に「神を畏れなさい」と言われ、次に「皇帝を敬いなさい」と言われている。神は畏れるが皇帝は敬う。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝へ」というイエスの言葉にペテロも従っている。
−1ペテロ2:15-17「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。

3.復活についての問答

・復活を信じないサドカイ派の人々がイエスに復活問答を仕掛けた。
―マルコ12:18-19「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスの処へ来て尋ねた。『先生、モ−セは私たちのために書いています。「ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、後継ぎをもうけねばならない」と』」。
・サドカイ派の人々の質問は、申命記25:5-6を基にしていた。そこには妻が夫に先立たれ、子のない場合、夫の兄弟と再婚し子をもうけねばならないと書かれている。女が七人の兄弟と次々と結婚しては死なれ、最後にその女も死んだ時、復活した女はだれの妻かと彼らは問う。質問の底には復活否定がある。
―マルコ12:20-22「『ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして七人とも跡継ぎを残しませんでした。最期にその女も死にました。』」
・イエスは彼らの不信仰と聖書の読み間違いを指摘し、「復活した人間は肉体を持つ人間ではない、天使のような者だから、結婚などありえない」と説かれた。
―マルコ12:23-25「『復活の時、彼らが復活すると女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』イエスは言われた。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活する時、娶ることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。』」
・イエスは出エジプト記3:6を引用され、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは大きな思い違いをしている」と指嫡された。
−マルコ12:26-27「『死者の復活については、モ−セの書の「柴」の箇所で、神がモ−セにどう言われたか。読んだことがないのか。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。』」
・死後の命をどう考えるべきか、聖書は多くは語らない。神は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからだ。今をどう生きるべきかを求め、死後のことは神に委ねよと聖書は語る。聖書が唯一語る死後の命は、「イエス・キリストが復活されたのだから、あなた方も復活するという希望を持っても良い」ということだ。パスカルはパンセの中でかたる「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者の神にあらず、イエス・キリストの神、わが神にして汝らの神」。パスカルは物理学者、数学者だから物事を理性で突き詰めて考えていくが、神の存在はいくら考えてもわからない、だから「哲学者の神ではない」。ただある時、彼は気づく「人間は自分が経験した事しか理解できない。人間はすべてを知っているわけではない」。それに気づいた時、彼はかってアブラハムやイサクを導き、イエスを死からよみがえらせた方が、今自分を生かして下さる「わが神」であるとの秘儀を体験した。
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