すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マルコ福音書(二巡目)  >  2017年6月21日祈祷会(マルコによる福音書10:32-52、イエスの受難予告と弟子たち)


1.イエスの三度目の受難予告

・エルサレムへ先立ち進まれるイエスの姿に、弟子たちは驚きと恐れを感じていた。彼らは受難予告に対して半信半疑だったが、ばくぜんと変化の時が近いのを感じていた。
−マルコ10:32「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話された。」
・イエスはエルサレムに到着する直前に三度目の受難予告をされた。三度目の受難予告はこれまでよりも詳細になっている。弟子たちが見た実際の光景が、そこに折り込まれている。
−マルコ10:33-34「『今、私はエルサレムに上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。』
・パウロはイエスの受難を「復活の視点」から理解する。しかし地上のイエスにとって、受難はあくまでも受難であり、イエスは復活を想定されていない。
−ロ−マ6:4-5「私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」。

2.ヤコブとヨハネの勝手な願い

・受難予告を聞いても弟子たちはまだイエスを「栄光のメシア」と理解し、自分たちも栄光に預かりたいと願っている。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が「エルサレムに着かれたら、一人をイエスの右に、一人を左に座らせてほしい」と願い出た。マルコは弟子たちの無理解を徹底的に明らかにする。
−マルコ10;35―37「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになる時、私たちの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください。』」
・マタイはヤコブとヨハネの言葉を母親の言葉に変え、弟子の無理解を緩和し、ルカは物語を削除する。
−マタイ20:20-21「その時、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。』」
・二人の要求を聞かれたイエスは彼らに、「私がこれから飲む苦い杯を飲むことができるか」と諭すように語られた。彼らは「できます」と答えた。だが彼らは何も分かっていなかった。
―マルコ10:38−39「イエスは言われた。『あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受けるバプテスマ(洗礼)を受けることができるか。』彼らが、『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたは私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマ(洗礼)を受けることになる。』」
・弟子たちもイエスの受ける洗礼を受ける。ヤコブは44年頃殉教し(使徒12:2)、ヨハネもエペソで苦難の人生を送る。イエス生前、弟子たちは無理解だがイエスに従い続け、復活のイエスに出会い変えられた。
-使徒5:41-42「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」。

3.この受難予告を通して明らかになるもの

・ヤコブとヨハネの抜け駆けに、他の弟子たちは腹を立てる。彼らもまたイエスの栄光の時に良い地位につきたいから、ここまで従って来たのである。
−マルコ10:40―41「「『しかし、私の右や左にだれが座るかは、私の決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ』ほかの十人の者はヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」
・その弟子たちにイエスは「仕える者になりなさい」と言われた。
−マルコ10:42−44「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が、民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。』」
・偉い人=ギリシャ語メガス、ラテン語マイヨールはローマ皇帝の別称だ。ここでイエスが言っておられるのは「支配者とみなされているローマの皇帝たちは諸民族の上に君臨し、諸民族に対して権力を振るっている。だが君たちは決してそうであってはならない」ということだ。何故ならば、イエスは「仕えられるためではなく、仕えるために来た」からだ。
−マルコ10:45「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
・弟子たちがなりたかった「先の者(プリンケプス)」、「大いなる者(マイヨール)」とはローマ皇帝を指すが、ギボン「ローマ帝国衰亡史」によれば、歴代ローマ皇帝の死因のトップは暗殺、次が自殺だ。聖書は私たちに「あなたがたも暗殺や自殺で終わるような人生を歩みたいのか、この世で第一人者、大いなる者になるとはそういう生涯なのだ」と示す。そして「そのようなむなしい人生ではなく、本当に意味のある人生、仕える望み、小さい者を受け入れる望みに従って生きなさい」と勧める。私たちは「競争社会の中で勝利しなさい、そのために今は苦しい勉強や訓練に励みなさい。それが必ず報われる時が来るから」と、教育されて育ってきた。それに対してイエスは「勝ち組になれば本当に人生は充実するものになるのか。利害損得だけで人は幸せになれるのか。人生は人と人が愛し合う時にこそ満たされるのではないのか」と言われる。私たちは、「世にあって」、「神の国の価値観を生きる」人生に招かれている。

4.盲人バルティマイをいやす

・イエス一行がエリコに着き、通り抜けて出て行こうとされた時、道端に座り、物乞いをしていたティマィの子(バルティマイ)という盲人が、大声でイエスに憐れみを求め始めた。
−マルコ10:45−47「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一諸にエリコを出て行こうとされた時、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと叫んで、『ダビデの子、イエスよ、私を憐れんでください』と言い始めた。」
・近くにいた人々は、バルティマイを叱りつけ、黙らせようとしたが、彼は人々の制止を振り切り、叫び続けた。叫び声はイエスの耳に届き、イエスは「彼を呼んで来なさい」と言われた。
−マルコ10:48−50「多くの人々が叱り黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ちどまって、『あの男を呼んできなさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。盲人は上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところへ来た。』
・イエスが「何をしてほしいか」と尋ねると、バルティマイは「見えるようになりたい」と即答した。イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。バルティマイは見えるようになりイエスに従った。
−マルコ10:51−52「イエスは、『何をしてほしいか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人はすぐ見えるようになり。なお道を進まれるイエスに従った。」
・イエスは多くの人々を癒されたが、福音書に名前が記されている人は少ない。バルティマイがその後どのような生涯を送ったのかわからないが、彼が初代教会でイエスの弟子として知られていたのは事実であろう。彼の名前が残り、彼の叫び「主よ、憐れみたまえ」が「キリエ・エレイソン」(キリエ=主よ、エレイソン=憐れみたまえ)という讃美歌になった。イエスはこれまでバルティマイがどのように苦しんできたかを理解された。彼はエリコの町の中に入ることは出来ず、物乞いとして屈辱の中で生きてきた。バルティマイはエリコの町の外、道の端に座っていた(by the way)。そのバルティマイがイエスの憐れみを受け、道の上(in the way)を歩く者になった。今までは障害者として道の端に座っていた者が、キリストの弟子として道の真中を歩ける者になった。私たちはイエスのように盲人の目を開けることは出来ないが、彼のために時間を割き、必要なら治療費を差し出すことは出来る。イエスに癒された者は他者を癒すことが出来るようになるのだ。
-第一ヨハネ3:16「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。

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