すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.イエスの姿が変わる

・イエスが自らの受難と死を弟子たちに語られた六日後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネら三人の弟子を連れて高い山に登られた。そこで彼らの目の前で繰り広げられたのは、光り輝くイエスの変貌とエリヤ、モ−セと語りあう姿だった。
−マルコ9:2−4「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモ−セと共に現れて、イエスと語りあっていた。」
・ペトロは我が目を疑う光景に恐れうろたえた。
−マルコ9:5−6「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモ−セのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロはどう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」
・突然に湧き起った雲が弟子たちを覆い、雲の中から厳かな声が響いた。
−マルコ9:7−8「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声があった。『これは私の愛する子。これに聞け。』弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一諸におられた。」
・イエスと弟子たちは山を降りる。イエスは「自分が復活するまでこのことを誰にも話すな」と言われる。「イエスがどなたであるか」は受難と復活を経た後でなければ誰にも理解できないからだ。
−マルコ9:9−10「一同が山を下りる時、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」
・弟子たちがイエスに、「まずエリヤが来るはずだと律法学者が言うのは何故でしょうか」と聞くと、イエスは「エリヤはたしかに来たが、人々に無視されてしまった」と語られた。イエスはバプテスマのヨハネがエリヤの再来であったと理解され、ヨハネが殺されたように自分も殺されるであろうと予期されている。
−マルコ9:11−13「そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『確かに、まずエリヤが来て、すべてを元通りにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのは何故か。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。』」
・多くの聖書学者は、「この記事は、復活後のイエスとの顕現体験を生前のイエスに投影した教会の信仰告白である」とする。おそらく、イエスの死後に弟子たちが復活のイエスに出会った顕現の場面が伝承され、生前の物語の中に挿入されたと思われる。ここには弟子たちのイエスに対する無理解が描かれている。ペテロたちが本当にイエスの変貌を目撃し、イエスが「神の子」であることを確信していたのであれば、後日、イエス十字架にかけられた時に、イエスを否定したり、逃げ出したりはしなかった。弟子たちが「イエスの名」のために命を投げ出して行くのは復活のイエスに出会った後であり、この段階ではまだそのような信仰の確信には至っていない。
・私たちは毎週日曜日に教会の礼拝に参加する。7日目ごとに日常と離れた山に登る。そしてこの山で、神と会い、言葉をいただいて下山する。下山するとは、週6日の日常生活に戻ることだ。教会は聖なる山、神の国だ。私たちの毎日は常に喜べる状況ではない。挫折も失意も仲たがいもある。その中でキリスト者として生きるために私たちは7日ごとに山に登るのだ。
−ピリピ4:6-7「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。

2.汚れた霊に取りつかれた子を癒す

・山を下りたイエス一行が、残してきた弟子たちの処へ戻ってみると、彼らは群衆に囲まれ、律法学者と議論していたが、イエスの姿を見ると議論をやめた。
−マルコ9:14−15「一同がほかの弟子たちのところへ来てみると、彼らは大勢の群衆に囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。」
・イエスが「何を議論しているのか」と聞かれると、群衆の中の一人が、「霊に取りつかれた子供の治療を弟子に頼んだができなかった」と答えた。
−マルコ9:16−18「イエスが『何を議論しているのか』とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。『先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれてものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。するとこの子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出して下さるようにお弟子たちに申しましたが、出来ませんでした。』」
・この子の病は癲癇であろう。それは脳組織の損傷によって生じる病気であるが、当時は悪霊がついたゆえに生じると思われていた。話を聞いたイエスは、時代の不信仰を嘆き、子供を連れて来るよう命じられた。霊はイエスを見るなり、子供を引きつけさせた。
−マルコ9:19―20「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子を私の所に連れて来なさい。』人々は息子をイエスの所に連れて来た。霊はイエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転げ回って泡を吹いた。」
・イエスは、子供の父親に「いつから霊に取りつかれたのか」と聞かれると、父親は「幼い時からです。できるのでしたら癒して下さい」と頼む。イエスが「信じる者にはすべては可能だ」と一喝されると、父親は「信じます。信仰のない私を助けてください」と叫んだ。
−マルコ9:21−24「イエスは父親に、『このようになったのは、いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、私どもを憐れんでお助け下さい。』イエスは言われた。『できればと言うのか。信じる者には何でもできる』。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のない私をお助け下さい。』」
・イエスが霊を叱ると、霊は子供を引きつけさせて、出て行った。衝撃で失神した子供を見た人々は「子供は死んだ」と思ったが、イエスが手を伸ばされると子供は起き上がった
−マルコ9:25−27「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。『ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、私の命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。』すると、霊は叫び声を上げ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が『死んでしまった』と言った。イエスが子供の手を取り起こすと、子供は立ち上がった。」
・弟子たちは、「なぜ自分たちは悪霊払いができなかったのか」、論じ合った。イエスは「祈りによらねば、悪霊払いはできない」と語られた。
−マルコ9:28−29「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、『何故、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と尋ねった。イエスは『この種のものは、祈りによらなければ、決して追い出すことはできないのだ』と言われた。」
・「お出来になるなら」、この言葉の裏には父と子の長い苦しみがある。子供は幼い時から癲癇の発作に苦しんでいた。父親は子供の病気を救ってやりたいとして、多くの医者を尋ね歩いて来た。しかし、誰も治せなかった。今、一縷の望みを持ってイエスの弟子に依頼したが、無駄であった。イエスでもだめだろう、父親はそう考えている。この父親は不信仰だが、当然の不信仰だ。何故ならば父親はイエスが誰であるかをまだ知らないからだ。イエスは父親にもう一段の踏み込みを要求される。癒しには信仰が必要だ。「信仰の無い私を助けてください」と言う父親の叫びの中に、無教会の関根正雄は「無信仰の信仰」を見る(関根正雄著「聖書の信仰と思想」)。自己の無力を完全に表明した時にこそ神の力が現れる。
・22節では父親は「私どもを憐れんで下さい」と願っている。私ども、父親とてんかんの子だ。しかし、イエスとの問答を受けた24節では「信仰のない私をお助けください」となっている。私たちではなく、私だ。ここにおいて、もはや子の癒しではなく、父親の救いが問題になっている。イエスは「祈らなければ癒しは出来ない」と言われた。癒しは神の恵みだ。
−ブルームハルト「病気になるのも神の御心、病気が癒されるのも神の御心である」。
・聖書学者E.シュバイツァーはマルコ9章を注解して語る「人はただ、自分の不信仰を知ることにおいてのみ、信仰という神の賜物を喜ぶことが出来る」。「信仰のない私をお助けください」という祈りこそ、私たちがなすべき祈りなのではないか。信仰が足りないから癒されないのではない。癒されないことが恵みであるから、癒されない。それがどのような悲惨な病であっても、それは恵みなのだ。病気や苦しみがあるからこそ、私たちは神を求め、求める人は神に出会う。父親は子の病があるからイエスを求め、出会った。子の病があったからこそイエスに出会えたとしたら、子の病は恵みなのではないか。
−河野進「病まなければ」より「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇蹟がある。病まなければ、聴き得ない御言葉がある。病まなければ、近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった」。
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