すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.四千人に食べ物を与える

・イエスの前に、腹を減らした四千人の群衆がいた。群衆を解散させる時刻が迫っていたが、イエスは彼らを空腹のまま帰らせるのを不憫に思われた。
―マルコ8:1−3「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一諸にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。なかには遠くから来ている者もいる。』」
・弟子たちは、「こんな人里離れた所で食糧を手に入れるすべはありません」と答えた。それを聞いたイエスは、群衆を座らせ、弟子の差し出した七つのパンを手に取り、天を仰いで祈り、裂き、群衆に配られた。
―マルコ8:4−6「弟子たちは答えた。『こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。』イエスが、『パンはいくつあるか』とお尋ねになると、弟子たちは、『七つあります』と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。」
・さらに小魚があったので、賛美と祈りをささげた後、群衆に配られた。群衆が食べ終わった残りを集めると七籠になった。食べて満腹した人は約四千人だった。イエスは彼らを解散させ、舟に乗り、ダルマㇴタに向った。
−マルコ8:7−10「また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパン屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマㇴタの土地へ行かれた。」
・マルコは5000人の給食を述べた後で(6:30-44)、今度は4000人の給食の物語を紹介する。多くの解釈者は前の奇跡の伝承が二つの物語に形成されたとみるが、マルコは別の奇跡がなされたと主張する(マタイも同様に理解して掲載するが、ルカは同じ物語と見て二度目の給食記事を省略する)。イエスは感謝して(ユーカリスティン)、パンを裂き、人々に配られた。この「感謝して」が、聖餐式(ユーカリスティア)の語源になっている。聖餐式の起源を荒野の会食に求めれば、全ての人への(オープンの)聖餐式になろう。

2.ファリサイ人のパン種とヘロデのパン種

・ファリサイ派の人々がイエスに議論をしかけ、「イエスの行う奇跡が天からである証拠を見せよ」と迫った。イエスは彼らが証拠をほしがるのをみて、嘆き、言われた。「証拠、証拠と騒ぎたてる今の時代の者たちには奇跡は起きない」。そして、それ以上彼らを相手にせず、舟に乗り対岸へ向かわれた。
―マルコ8:11−13「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは心の中で深く嘆いて言われた。『どうして、今の時代の者はしるしをほしがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。』そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。」
・舟の中で、弟子たちは一つしかパンを持って来なかったことに気づいた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とヘロデ派のパン種」に注意するよう訓戒された。弟子たちは、イエスが、パンを忘れた彼らを責められたと思い込んだ。
−マルコ8:14−16「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。その時、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデ派の人々のパン種によく気をつけなさい』と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。」
・弟子たちは的外れな議論をしている。その弟子たちにイエスは言われた「あなたたちは目で何を見、耳で何を聞いていたのか」。五千人を五つのパンで養われ、七つのパンで四千人を養われた奇跡を見たのに、何故、そこに「神の業が示されている」ことに気付かないのか。
―マルコ8:17−21「イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。私が五千人に五つのパンを裂いた時、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは『十二です』と言った。『七つのパンを四千人に裂いた時には、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか』。『七つです』と言うと、イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた。」
・一つのパン(イエスの裂かれた体)があれば皆が十分に食べることが出来る。しかしユダヤ人は異邦人と食卓を共にしないし、白人と黒人は別れて礼拝し、日本人も韓国人と礼拝を共にしない。一つの体になりえない現実がある。
-コリント10:16-17「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。

3.この物語を私たちはどう読むか

・イエスは「ファイリサイ派やヘロデ派のパン種に気をつけなさい」と言われている。パン種(イースト)は、ユダヤでは悪の象徴として用いられる。わずかのパン種が全体を膨らませるように、人間の内部にあるわずかな邪悪な精神や誤った考え方が、共同体全体を壊してしまう。その危険性が指摘されている。ユダヤ教では献げものにするパンは種入れぬパンを用い(レビ記2:11)、過ぎ越しの祭りの前には、家の中から古いパン種を一掃することが求められていた。
・ファイリサイ派のパン種とは何か。ファイリサイ派の人々はイエスが七つのパンで四千人を養われる場にいて、不可能を可能にされる神の業を今見たのに、更なるしるしを求める(8:11)。ファイリサイ派の人々は律法、神の戒めを守れば救われると考え、律法の規定を細かく定め、その規定を守らない者を「罪人」として排除した。彼らは律法を守る自分たちを正しいとし、律法を守らない、あるいは守ることの出来ない、貧しい人々や病人を救いから排除していた。自分を正しいとする者は、「罪人」として切り捨てた人たちが空腹であっても心を動かさない。イエスが食べるものも無い人々を見て「この群衆がかわいそうだ」(8:2)と憐れまれ、手元にあったパンを裂いて、四千人を養われても、彼らはそれを天からのしるしと見ない。自分たちの神学を頑なに信じている人々は、神の業を見ても心を動かされない。何故なら、彼らが信じているのは、実は神ではなく彼ら自身だからだ。ここに宗教的傲慢の罪がある。
・私たちの中にも、このファイリサイ派のパン種がある。教会の中でも、人は他者を裁きがちだ。自分を正しいとする者は、そうでない人の存在に我慢できない。私たちも往々にして言う「洗礼を受けない者は天国に行けない」、「礼拝を守らない者は救われない」、私たちがそのように言い始める時、私たちもファイリサイ派になっている。イエスは私たちに「父は裁かれる方ではなく、憐れまれる方だ」と教えられた。父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)方だ。それなのに、私たちは「人々の前で天の国を閉ざし・・・入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:13)。その私たちに、イエスは言われる『私に向かって、主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである』」(マタイ7:21-22)。
・「ヘロデのパン種」とはガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスのような生き方を指す。彼はローマから任命されたガリラヤ領主であり、多くのものを持ちながら、それ以上のものを欲した。彼は兄ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤの美しさに惹かれ、自分の妻を離別し、兄からヘロデヤを奪う。それを批判した洗礼者ヨハネを捕え、その首をはねる。自己の権力を維持し、欲望を満たすためであれば、いつでも反対派を抹殺する生き方だ。権力闘争が世界中で繰り広げられているが、所有と権力を争うこのような生き方こそがヘロデのパン種の典型であり、神なき世界の有様だ。だから「古いパン種は除き去る」のである。
−1コリント5:6-8「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです・・・だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」。
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