すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マルコ福音書(二巡目)  >  2017年4月26日祈祷会(マルコによる福音書6:30−56、五千人の給食と湖上歩行)


1.五千人に食べ物を与える

・宣教の旅から帰った弟子たちは、イエスに宣教の成果を報告した。イエスは彼らの労をねぎらい、休息のため、一諸に舟に乗り、人里離れた場所を目指された。
−マルコ6:30−32「さて、使徒たちはイエスの所に集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、『あなたがただけで、人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事するひまもなかったからである。そこで、一同は舟に乗って人里離れた所へ行った。」
・イエスたちが去るのを見た人々はあわてて、その後を追い始めた。イエスは拠り所のない彼らが追いかけてくる哀れな姿を見て、しばし留まり、教え始められた。
−マルコ6:33−34「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町から一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」
・「飼い主のいない羊」、イエス時代の民衆は信頼できる飼い主=羊飼いがいなかった。ガリラヤ領主ヘロデは預言者ヨハネを捕らえ、その首をはねるような人物だ。民のために執り成しをするべき祭司は、神殿税や捧げ物によって裕福な生活をしており、民が困窮しても気にかけなかった。日常の生活指導を行う律法学者は律法を守ることの出来ない貧しい人々を、「地の民」と呼んで軽蔑していた。世の指導者は、民の利益よりも自分の利益を優先し、その結果、民は、「飼い主のいない羊」のような状況に放置される。イエスは今、神から派遣された牧者として人々の前に立たれている。
-エゼキエル34:23「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。
・イエスが教え始めて、思いかけず時が過ぎ、空腹を覚えた弟子が、「人々を解散させ、近くの町へ食べ物を買いに行かせましょうか」と相談した。弟子の相談をうけたイエスは弟子に、「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた。群衆にパンを与えれば二百デナリオンは必要だ、そのような大金はなかった。困っている弟子たちに、イエスは「今いくつのパンがあるのか」と尋ねられた。弟子たちは「五つのパンと二匹の魚があります」と答えた。
−マルコ6:35−38「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶ経ちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう。』これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』とお答えになった。弟子たちは、『私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った。イエスは言われた。『パンが幾つあるのか、見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て言った。『五つあります。それに魚が二匹です。』」
・旧約の時代、神は一握りの小麦粉で三年間、エリヤとやもめ一家を養われた(列王記上17:16)。神は必要な時に必要なものを与えてくださるとの信仰がイエスにあった。イエスの手元には五つのパンと二匹の魚があった。イエスは天を仰いで感謝の祈りを唱えてから、人々にパンを分け与えられ、干した魚も同じようにして分け与えられた。
―マルコ6:39−44「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座るようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつ、まとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した・・・パンを食べた人は男が五千人であった。」
・イエスは多くの癒しを行われたが、私たちにはイエスのような奇跡を起こす力はない。そもそもイエスは私たちに出来ないことを求められているのではなく、「出来ることから始めよ」と言われる。私たちには五千人を養う力はないが、手元にあるパンと魚を差し出すことは出来る。後は神が行為してくださる、それを信じて行うことが思いがけない大きな出来事、奇跡を生んでいく。信仰の行為を通して、私たちは「神の国が今ここにある」ことを見ていき、人々に見せていく。それが教会の使命なのではないだろうか。

2.湖の上を歩く

・五千人の群衆に食べさせた後、イエスは弟子たちに命じて舟に乗せ、対岸のべトサイダへ向かわせ、群衆を解散させた。イエス自身は祈るため山に入られた。
―マルコ6:45−47「それから、イエスは弟子たちを強いて舟に乗らせ、向こう岸のべトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山に行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」
・弟子たちの舟が、湖の半ばに差しかかった頃、逆風が吹き始め、舟の進行を阻んだ。イエスは沖で行き悩む弟子たちの舟を見て、湖上を歩いて弟子たちのところに行かれた。イエスを見た弟子たちは幽霊と思い、怯えた。イエスは彼らに声をかけ、「安心せよ」と励まされた。
−マルコ6:48−50「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちはイエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ話し始めて、『安心しなさい。私だ。恐れることはない』と言われた。」
・イエスが舟に乗り込まれると風は静まった。マルコは、弟子たちはパンの奇跡を理解しなかったと記す。五つのパンで五千人を養われた方は、湖を歩いて弟子たちを助けることも出来るお方だ。
−マルコ6:51−52「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは、心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず。心が鈍くなっていたからである。」

3.イエスの湖上歩行の物語をどう読むか

・多くの聖書学者たちは、イエスの湖上歩行の記事はもともと「復活のイエスとの出会い」を描いたものではないかと考える。復活のイエスとの出会い体験が書き伝えられる過程で、記事がイエスの地上の働きとして伝承されていったのであろう。マタイの並行個所ではその構造はもっと明確だ。ペテロはイエスに対して「主よ」という言葉を用いる。「主」とは復活後のイエスに対する尊称であり、この物語が復活のイエスとの出会いであれば、闇の中を歩いてこられるイエスを見て、幽霊だと思っても不思議はない。
-マタイ14:28-32「ペトロが答えた『主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』。イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」。
・復活体験は言葉では説明の出来ない出来事だ。しかしイエスの十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが、やがてまた集められ、「イエスは死からよみがえられた。私たちはそれを見た。イエスこそ神の子であった」と宣教を始め、死を持って脅かされてもその信仰を捨てなかったことは歴史的事実だ。復活のイエスとの出会いが彼らを変えた。その後、弟子たちの宣教により、ローマ帝国の各地に教会が立てられ、ローマにも教会が生まれた。
・マルコ福音書は紀元70年頃、そのローマで書かれたと言われている。マルコが福音書を書いた当時、教会は迫害の中にあった。ペテロやパウロという指導者を相次ぐ迫害の中で失い、今なおローマからの迫害に直面する教会は、まさに「逆風の中で」漕ぎ悩んでいた。困難に次ぐ困難で、「教会という舟はまさに沈もう」としていた。彼らは勇気を無くし、主は自分たちを見捨てられたのではないかとさえ思い始めていた。そのマルコの教会に「嵐の中で漕ぎ悩む弟子たちを助けるためにイエスが来られた」という伝承が与えられた。マルコはその伝承を知り、「主は私たちを捨てられたのではない、今、主は共におられなくとも、私たちの苦難を知っていてくださる、そして夜中であっても、私たちを救うために来てくださる」との使信を教会に伝えた。
・アウグスチヌスは語る「私には出来ませんが、あなたによって出来ます」。嵐の中で私たちの信仰は揺さぶられる。極度の困難の中で「神はおられるのか」、「おられるのならば何故救ってくださらないのだ」と叫ぶこともある。聖書が教えることは、嵐の只中において、私たちは神と出会うということだ。私たちは平安の中ではなく、困窮の中で救い主と出会う。何故なら、平安の時には神を求めないからだ。私たちは泣くことを通して、私たちを造られた神が憐れみの方であり、私たちに呪いではなく、祝福を与えようとしておられる事を知る。嵐は祝福の第一歩なのである。
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