すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マルコ福音書(二巡目)  >  2017年4月12日祈祷会(マルコによる福音書5:21-43、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女)

1.イエスの服に触れる女

・イエスの行く所、いやしを求める群衆が押し寄せた。イエスにいやしを求めるのは、庶民だけではなく、体制側の祭司長ヤイロも娘のいやしを求めた。彼の娘が死にそうだったからである。
―マルコ5:21-24「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足元にひれ伏して、しきりに願った。『私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』そこで、イエスはヤイロと一諸に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫ってきた。」
・しかし出かける前に、一人の病気の女がイエスに触れ、一行は足止めされる。この女性は十二年間も長血を患い、治療に全財産をはたいても、何の効果もなく、体調は悪くなるばかりだった。
−マルコ5:25-26「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」
・希望を失っていた女は、イエスの評判を聞き、群衆にまぎれて、イエスの服の端に触れた。その時、彼女は病がいやされたと感じた。
−マルコ5:27-29「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」
・マルコは女性の病気を「マスティクス=鞭」という言葉で呼ぶ。鞭、神から与えられた災いとの意味だ。この女性の病気は慢性の子宮疾患であろうが、当時出血を伴う病気は不浄とされ、人前に出ることを禁じられ(レビ記15:25)、彼女は公的な場から締め出されていた。だから彼女は前からではなく、後ろからイエスに触れる。すると出血が止まった。またイエスも自分の中から力が出て行ったことを感じられた。
−マルコ5:30-31「イエスは自分の内から力の出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『私の服に触れたのはだれか』と言われた。そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、「だれが私に触れたのか」とおっしゃるのですか。』」
・「誰が私の服に触れたのか」、周囲を見回すイエスの前に、長血を癒された女が進み出た。彼女は自分の過去の病の苦しみ、そして自分が今イエスの服に触れていやされたことのすべてを話した。イエスは彼女の一途な信仰をほめ、彼女を祝福した。
−マルコ5:32-34「しかし、イエスは触れた者を見つけようと、あたりを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」
・人が苦難の時、「生きる希望を失うと生命が尽きる」と言われる。他方、「信仰に支えられ、希望を持ち続ければ生き続けられる」とも言われている。長血を患い、医者にも見離され、万策尽きた女が、イエスにすべてを委ねて近づいた時、どんな人間にも本来備わっている「自然治癒力」が働いて、いやされたのであろう。イエスが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言ったのは的を射た言葉だ。この女性はイエスに触れることによって病気が「治癒」した。しかし、それだけでは十分ではない。だからイエスはあえて女性を探しだされ、彼女と人格と人格の交わりをして、彼女を祝福された。29節「病気が癒された」、そこには治癒を示す「イオウマイ(治す)」という言葉が用いられているが、39節「あなたの信仰があなたを救った」所には、「ソゾウ(救う)」という言葉が用いられている。病気の治癒だけでは不十分であり、治癒は全人格的な救いに至ることを通して完成する。

2.ヤイロの娘の癒し

・イエスがまだ長血の女と話している最中、会堂長の家から使いが来て、「娘はもう死んだ。イエスにご足労願わなくてよい」と語った。しかし、イエスは会堂長に、「恐れるな、ただ信ぜよ」と言って励まされた。
−マルコ5:35−36「イエスがまだ話しておられる時に、会堂長の家から、人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」
・イエスはヤイロの家へ行かれ、娘の死を悲しんで泣き叫ぶ人々を横に家へ入り、「娘は眠っているだけだ」と明言された。聞いた人々は嘲り、笑った。イエスは両親と弟子たちを残して、人々を遠ざけられた。
−マルコ5:37−40「そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所に入って行かれた。」
・イエスが娘の手を取り、祈られると、娘はすぐ起き上がり、歩きだした。見ていた人々は驚嘆した。
−マルコ5:41−43「そして、子供の手を取って『タリタ・クム』と言われた。これは、『少女よ、私はあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせるなと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」
・この物語は単なる伝承ではなく、歴史的な物語の核を持っていると考えられる。「タリタ・クム」というアラム語がそのまま伝承されていることは、この出来事を目撃した弟子たちが強い印象を持ち、そのためにイエスが語られたアラム語がそのまま伝承として伝えられたと思われる。ヤイロの必死さがこの出来事を生んだ。聖書に名前が残っていることは、ヤイロはマルコの教会の中で広く知られた人物だったことを推測させる。ヤイロは娘のいやしを通して、イエスに従う者に変えられていったのであろう。この物語は単なる少女の病のいやしではなく、父親と娘の二人がよみがえった物語なのだ。

3.この二つの物語をどう読むか

・二つの物語に共通するのは、「必死の信仰に神は答えて下さる」との告白だ。ヤイロは娘が危篤になり、会堂長としての世間体を捨て、イエスに願い出た。「この人以外には娘の命を救える人はいない」との必死の思いが、「娘に手を置いてやって下さい。そうすれば娘は救われるでしょう」という言葉に現れている。彼は身分が高く、使用人もおり、家族もいた、娘は死の床にあった。通常は本人が出かける状況ではなく、家族か召使を遣わせば良いのに、彼自身が出迎えに来ている。また、途上で使いが娘の死を知らせに来るが、その時の使いは「もう先生を煩わすには及ばない」と冷たく言い放っている。イエスを家に迎えた時の人々の対応も冷淡だ。周囲の人々は、異端を疑われていたイエスに頼むことに反対していた。それにもかかわらず、彼はイエスを必死に求めた。その必死の行為こそが、イエスを動かし、そして神を動かした。
・長血を患っていた女性の場合も同様だ。彼女は病気故に周りの人々から排斥され、正面からではなく後ろからイエスに触れる。その触れ方もイエスの服を握り締めるような触れ方だ。「この方の服にでも触れればいやしていただける」、その表現の中に女性の必死さが反映している。その女性の必死さにイエスも応えられて、会堂長への奉仕を中断された。「あなたの信仰があなたを救った」、神は必死で求める者には必ず応えて下さることを物語は示している。
・祈っても治らない病気があり、願っても改善できない生活がある。不遇の死を遂げる信仰者もいる。ただ、その時、私たちは「治癒」と「いやし」の区別を再度考える必要がある。「神は求める者には応えて下さる。しかしその応えは必ずしも私たちの求めるものではない」ことを知るべきだ。何故ならば神は単なる「治癒」ではなく、全人格的な「いやし」を与えてくださる方だからだ。
・内村鑑三は17歳の娘ルツ子を亡くした時、葬儀の墓前で「ルツ子さん、万歳」と叫んだ。そばにいた矢内原忠雄は驚いた。なぜ内村は「ルツ子さん、万歳」と叫んだのか。内村はその心境を書いている。
−内村鑑三聖書注解全集十五巻より「私は娘の病がいやされると信じていた。私の耳に響いていたのはイエスの言葉『恐れるな。ただ信ぜよ』であった。しかし、私の娘は死んだ。ヤイロの祈りは私の祈りとならなかった。私の信仰は根底から揺らぎ、私は暗黒の淵へ投げ込まれた・・・しかし、私の娘の場合も祈りが聞かれなかったのではなく、聞かれつつあるのだ。終わりの日にイエスが信じる者を蘇らす時、イエスは私の娘に向かって『タリタ・クム』と言うのである。だから私たちには、ヤイロ以上の信仰がなくてはならないのである。私の娘がいやされてもいやされなくても、最後のいやしである救いを信じ、その日を待たねばならない。『信仰の弱い私たちを憐れんでください』との祈りに、主は答えて下さるだろう。」
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