すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マルコ福音書(二巡目)  >  2017年3月29日祈祷会(マルコによる福音書4:21−34、ともし火のたとえ、成長する種とからし種のたとえ)


1.「ともし火」と「秤」のたとえ

・イエスはたとえを用いて、弟子たちに、「恐れず福音を伝えよ」と励ました。福音は闇の世を照らす「ともし火」であり、福音を伝えないのは、「ともし火を升の下に隠す」ことと同じだ。福音には隠そうとしても、現れて世を照らす力がある。「聞く耳があるなら信じて世に福音を伝えなさい」とイエスは語られた。
―マルコ4:21−23「また、イエスは言われた『ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい』」。
・イエスは「秤のたとえ」を用いて、弟子たちを戒められた。あなたたちは自分の信仰によって、恵みを量り与えられる。持つ者は更に増し与えられ、持たない者はそのわずかな恵みさえも取りあげられる。
―マルコ4:24−25「また彼らに言われた『何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる』」。
・イエスは「ともし火のたとえ」と「秤のたとえ」を用いて、福音は隠すことなく世の人々に語り伝えねばならないと教えられた。また、別の時イエスは弟子たちに語られた「今、あなた方が見て、聞いているものこそ福音(神の御言葉)である。旧約時代の預言者や王たちには、福音は隠されていて、見ることも聞くこともできなかった。その福音をあなたがたは私の姿を見て、私の声で聴くことができるのだ」と。
-ルカ10:23−24「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」
・また御言葉は聞くだけではだめなのだ。「聞く」ことと、「聞いて受入れる」ことの間には天地の差がある。聞いて受入れる、自分の思いを捨てて、御言葉に従う時に、本当の収穫が与えられる。
−ヨハネ9:41「イエスは言われた『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』」。

2.「成長する種」のたとえ

・イエスは信仰の成長を、「成長する種」にたとえられた。
―マルコ4:26−28「またイエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。』」
・蒔かれた種は「神の種」、「神の言葉」であり、神の言葉には命がある故に成長していく。神の国も神の力ある言葉によって成長していく。
−イザヤ55:10-11「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」。
・種が芽を出し、成長し、豊かな実を結ぶのは神の業である。だから、「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させて下さる」神だと、パウロは語る。
-汽灰螢鵐3:6-7「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させて下さる神です」。
・同時に、種を蒔く人、苗を植える人がいて、また水を注ぐ人がいてこそ、種は成長していく。私たちも神の為される業に参加する。為すべきことを為していけば良い。そうすれば収穫は神が与えて下さる。
−マルコ4:29「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」。

3.「からし種」のたとえ

・イエスは「からし種のたとえ」で、神の国の成長を教えられた。
―マルコ4:30−32「更にイエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」
・イエスは神の国の成長をからし種の成長にたとえられた。からし種は直径1mmくらいだが、育てば3mまで成長する。神の国は小さく始まり、大きくなる。イエスの弟子は12人から始まり、使徒2章の聖霊降臨節では120人に、そして、その直後の宣教を通して3000人に増え、今では世界中に増えている。
・イエスは「神の国は来た」と繰り返し言われた。誰もそれを認めようとしない。種が小さすぎて目に入らないからだ。しかし、それはやがて大きな木になる。今、イエスの目の前には、少数の弟子たちしかいない。弟子たちはイエスに従ったが、イエスが捕らえられると、彼らは逃げた。イエスの伝道の業はからし種のようだ。あるかないかわからない。それはイエスが生きておられた時には実を結ばなかった。イエスが十字架で死なれた時、誰もそれが世界を変える出来事だとは思わなかった。しかし、その十字架から、多くの芽が発芽し、やがて世界を覆う巨木になった。
・からし種は1年草だ。毎年蒔かなければいけない。宣教は毎週続けられる必要がある。神の国の秘密を教えられた弟子たちは御言葉を伝え続ける。その伝道はいつの日か必ず成果を見るであろう。
−マルコ4:33-34「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」。

4.一粒の麦が死ななければ

・種で思い起こすのはヨハネ福音書の「一粒の麦の話」である。イエスは、「一粒の種が地に蒔かれ、芽生え、育ち、実を結ばせるのは土の力である」と語られた。人が福音の種を蒔いた時、それを成長させるのは、信仰の土壌である神の力である。ヨハネは信仰の成長を、「一粒の麦が地に落ち死んで成長する」テ−マで書いている。
-ヨハネ12:24「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
・「一粒の麦が死ななければ」、麦を種として地に蒔けば、その種は地の中で、壊され、形を無くして行く。そのことによって芽が生え、育ち、やがて多くの実を結ぶ。麦を蒔かずに食べれば、それは一時の食糧にはなるが、食べればなくなり、後には何も残さない。イエスがユダヤの王として立っても、それは一時的なものに終わるが、十字架で死ぬ(種となる)ことによって、そこから多くの命が生まれていく。私たちは麦として生きるのか、種として生きるのか、どちらを選ぶのかが問われている。
・麦として生きるとは、人生の完成を目指して、自己実現のために生きることだ。多くの人がその道を選ぶだろう。しかし、その人生は死んだ後に何も残さない。もう一つの人生は、麦として死に、種として生きる人生だ。不人気な選択だ。私たちは、この道を選択する。そこに真理があるからだ。
−ヨハネ12:25「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。
・自分の幸福だけを求め続けても人は幸せになれない。私たちもある時、自分だけのために生きる人生の虚しさに気づいた。本当の幸せ、人生の喜びは他者との交わりの中から生まれる。他者との交わりに生きるとは自己を捨てることだ。種が自らを無くし、その事を通して多くの命を生んで行く、そのような生き方だ。イエスが来られた、イエスの言葉が語られた、種は蒔かれた。その種は、成長して、多くの実を結んだ。私たちも、その実の一つだ。私たちが、実のままでいれば、それは一つのままだ。しかし、私たちが実である事を放棄し、種になれば、それは30倍、60倍の新しい実を生む。種として生きる。
プリンタ用画面
前
2017年3月22日祈祷会(マルコによる福音書4:1−20、「種を蒔く人」のたとえ)
カテゴリートップ
マルコ福音書(二巡目)
次
2017年4月5日祈祷会(マルコによる福音書4:35-5:20、突風を静めるイエスとゲラサのイエス)