すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マルコ福音書(二巡目)  >  2017年3月15日祈祷会(マルコによる福音書3:20−35、ベルゼブル論争とイエスの家族)


1.ベルゼブル論争

・イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」として、宣教活動を始められた。イエスはガリラヤの町々村々を、伝道して回られた。人々は貧しく、病気になっても医者の治療も受けられず、律法を守ることの出来ない人々は「罪人」として社会から排除されていた。イエスは彼らを憐れまれ、病気の人をいやし、悪霊を追い出された。群集はイエスの業を見て「神の力が働かれている」と賞賛し、エルサレムの宗教指導者たちは、イエスの業は「サタンの業だ」と非難した。
―マルコ3:20-23「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事する暇もないほどであった・・・エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」
・律法学者たちはイエスの病のいやしや悪霊追放を否定することはできなかった。しかし彼らは、安息日や浄めの律法を軽視し、汚れている徴税人や罪人と交わるイエスが、神から派遣されたと信じることはできない。だから彼らは「イエスの力の源泉はサタンだ」と考えざるを得なかった。当時の人々はサタンを「ベルゼブル」と呼んだ。ベルゼブル=バアル・ゼブブ、「蝿の神」である。古代人は死人にたかる蝿をサタンの使いとして恐れた。触れることが禁止された病人に触れ、罪人である障害者をいやすイエスを非難して、「イエスはベルゼブルの力で病気を治している」と語った。
・イエスはこれに反論される。「サタンがサタンを追い出す、内輪争いをすれば国は倒れてしまう。悪賢いサタンがそんなことをするはずはない。私が悪霊を追い出しているのは神の力なのだ」と。
−マルコ3:24−27「そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たたない。同じように、サタンが内輪で争えば、立ち行かず滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれもその人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。』」
・イエス時代、人々は、世界は三段の階層から出来ていると考えていた。神の世界である天、人間が住む地、悪霊の支配する地下(陰府)の世界である。中間にある人間の世界には下からの悪霊の勢力と上からの神の勢力が共に影響力を及ぼしていると考えられていた。人間の病気や障害といった災いは、悪霊の支配によって起こり、神の支配が及ぶことによって、人間は悪霊から解放されて自由にされる。「病がいやされ、障害が治されることこそが、神の支配が広がっていくことのしるしなのだ」とイエスは言われた。
―ルカ11:20「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

2.赦されない罪

・そしてイエスは言われる「全ての罪は赦されるが、聖霊を冒涜する罪は赦されない」と。
−マルコ3:28-30「『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』。イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取り付かれている』と人々が言っていたからである」。
・「聖霊の働き」を「汚れた霊の働き」とすることは、神の恵みを否定することであり、神の救いを拒絶することだ。それは赦されない。知らないで犯した罪は赦されても、知った上で犯した罪は赦されない。後になるとこの言葉が、「背教者は赦されない」に変わっていく。これは聖書の正しい読み方ではない。
-汽茱魯5:16「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません」。
・聖書学者の荒井献は語る「悪霊という土俗信仰的呼称には、ある種の真実性があるのではないか。つまり、人間の精神に外側から及ぼす破壊力を人間は自力ではコントロールできないという真実性である」(荒井献「問いかけるイエス」)。私たちは、病気や障害が悪霊の業だとは考えないが、しかしその破壊力を押しとどめる力はない。理解を超える大きな悪の力がそこに働いていると思わざるを得ない現実がある。

3.イエスの母、兄弟とは誰か

・イエスは病に苦しむ人々や悪霊につかれた人々を憐れまれ、病をいやされ、悪霊を追放された。イエスの評判は高まり、人々が押し寄せてきた。そこにイエスの家族も来た。身内の者たちは「イエスを取り押さえるために来た」とマルコは記す。30歳になるまで、故郷ナザレで家業に従事されていたイエスは、バプテスマのヨハネの呼びかけに答えてユダヤに行かれ、そのまま家に帰らず巡回伝道者となられた。家族は「一家のために働くべき長男が家を飛び出して帰ってこない。そして都の偉い人たちから悪霊がついていると非難されている。息子を家に連れ戻さなければいけない」と考え、カペナウムに来た。
−マルコ3:21「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」。
・家族からすれば、一家の大黒柱が家業を捨てて放浪説教者になり、ユダヤ教の権威者と対立している。気が変になったと思わざるを得ない。家族はしばしば伝道の妨害者となる。地の国と神の国は両立しない。イエスが自分を探しに来た家族について「私の母、私の兄弟とは誰か」と言われたのは、家族に理解されない悲しさを述べられたものであろう。
−マルコ3:31−33「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人がイエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされた」

4.神の御心を行う人こそ私の家族だと言われるイエス

・「神の国は来た」とイエスは言われた。しかし、人々の苦しみは相変わらず続き、病気や障害で苦しんでいる人は相変わらずいる。人々はお互いを傷つけあい、自分勝手に生き、そのエゴが家族や地域社会を壊し、人々を苦しめる。経済的に豊かになっても、自殺者は減らない。医学の進歩により寿命が伸びれば、今度は寝たきりや認知症が私たちを苦しめる。犯罪も減らず、戦争も終わらない。「キリストが来られて何が変わったのか、世は相変わらずサタンの支配下にあるのではないか、サタンはまだ縛られていない」、そう思わざるを得ない現実が私たちの周りにある。それを変える鍵がイエスの言葉にある。
−マルコ3:34-35「(イエスは)周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ』」。
・「神の御心を行う人こそ私の家族だ」、このイエスの言葉は、十字架と復活を経て、現実のものとなって行く。イエスの十字架と復活を通して、イエスこそ神の子と信じる群が起こされ、彼らは教会を形成して行った。人々は共に住み、家族として一緒に暮らした。その群れの中に、かつてはイエスを信ぜず迫害したイエスの母や兄弟たちも招かれている。私たちはそこに十字架と復活が、無理解だったイエスの家族の心を砕いていった足跡を見る。この神の家族の形成(教会)こそ、神の国のしるしなのではないか。
-使徒1:13-14「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」
・地上の教会は不完全な群れだ。しかし、神の国を先取りしている希望の共同体だ。そこは「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉が通用する共同体であり、過ちを犯した者も招かれ、この世的欲望=サタンの業が打ち砕かれる所だ。イエスの十字架と復活を通して、サタンの支配の及ばない場所が生まれ、その場所は世界中に広がっている。神の国は来た、しかしまだ完成していない。その中でサタンに従う事を拒否する群が形成されている。私たちの教会にも、他者の為に祈ることの出来る群が形成されている。
-マルティン・ルターの言葉「私たちはただ神の力を知っているだけでは十分ではない、悪魔の力を知らなければいけない。そしてその力強い悪魔に打ち勝つことの出来ない自分の弱さを知って、ただ福音にのみ頼ることを学ばなければいけない。」
プリンタ用画面
前
2017年3月8日祈祷会(マルコによる福音書3:1-19、安息日のいやしと十二弟子の選び)
カテゴリートップ
マルコ福音書(二巡目)
次
2017年3月22日祈祷会(マルコによる福音書4:1−20、「種を蒔く人」のたとえ)