すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.断食についての問答

・ファリサイ人たちは神に対する献身を示すために週に二度断食した。イエスの弟子たちはこの断食を守らなかったので、ファリサイ人たちは、「何故守らないのか」と師であるイエスを問責した。
−マルコ2:18「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」
・イエスは彼らに直答せず、「弟子たちは花婿がいる限り(イエスがいる限り)断食することはないが、花婿が奪い取られる時(イエスが世を去った時)、弟子たちは断食するだろう」と答えられた。この記事はおそらくマルコの時代におけるユダヤ教会とキリスト教会の争いを反映している。何故ユダヤ教の戒めに従わないのかとキリスト者たちは批判され、彼らは「新しい時代が来た」と反論した。
−マルコ2:19-20「『花婿が一諸にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一諸にいる限り、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には彼らは断食することになる。』」
・イエスは、さらに「衣服の継ぎ当てと革袋の喩え」で説明された。古い掟、つまり断食は新しいイエスが教える福音には、そぐわないのだと。これもまた初代教会のユダヤ教徒に対する反論を反映している。「花婿が来た、神の国が来た。それは喜ぶべき時であって、人を非難する時ではない。イエスが来られてこの世の意味は変わった。変わったのに前と同じ生活をするのは愚かであろう」と。
−マルコ2:21−22「『だれも織りたての布から布きれを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。』」

2.断食の歴史とイエスの対応

・旧約時代、人々は大きな災難や試練、不幸からの救いを願い、断食して祈った。パレスチナがイナゴの大群に襲われ、農作物に莫大な被害を及ぼした時も、神の警告と見做した人々は断食して悔い改めた。
−ヨエル1:4−14「かみ食らういなごの残したものを、移住するいなごが食らい、移住するいなごの残したものを若いいなごが食らい、若いいなごの残したものを食い荒らすいなごが食らった・・・断食を布告し、聖会を招集し、長老をはじめ、この国の民をすべて、あなたたちの神、主の神殿に集め、主に向かって嘆きの叫びをあげよ。」
・律法の規定によれば、ユダヤ人は年に一回、七月十日の贖罪の日に断食しなければならなかった。そして、バビロン帰還後は、国民的苦難を永久に記憶するために、年に四回の断食日をもうけている。時代が移りイエス時代のユダヤ教では、断食は敬虔な信仰行為となり、週に二回月曜と木曜に断食が行われるようになった。その断食がルカ福音書に登場したファリサイ人の祈りの中で述べられている。
−ルカ18:12「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」
・イエスは断食を否定はしなかったが、肯定もしていない。カトリック教会は現代でも「断食」を行としているが、プロテスタント教会に断食行はない。しかし受難節を断食と悔い改めの40日間として守るカトリックの風習は学ぶ必要がある。この時を、断食の意味を考える期間にすることは意味がある。
−イザヤ58:6-8「私の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。」

3.安息日に麦の穂を摘む

・安息日にイエス一行が麦畑を通った時、腹を空かした弟子たちが麦の穂を摘んで食べた。
−マルコ2:23「安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」
・麦の穂を摘んで食べることは許されていた。それは貧しい人へのごちそうだった(申命記23:25 -26)。しかし、それを安息日に行うことは禁じられていた。労働(刈入れと脱穀)に当たるとされたからである。
-申命記5:14「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」
・ファリサイ派の人々はこの申命記規定を盾にイエスを批判した。
−マルコ2:24「ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った。」
・イエスは、安息日とダビデの史実を、サムエル記上21:1−7を引用して「人間の必要は律法に優先するのではないか」と言われた。
−マルコ2:25−26「イエスは言われた。『ダビデが、自分も供たちも、食べ物がなくて空腹だった時に何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であった時、ダビデは神の家に入り、祭司の他にはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一諸にいた者にも与えたではないか。』」
・安息日は元来イスラエルの農耕生活における休息日として設けられた。農耕は過酷な労働であり、休まないと体力を回復できない。だから「6日間働いて7日目には休みなさい」という祝福が与えられた。しかし、人間の罪はこの恵みを、人を束縛する戒めに変えてしまう。だからイエスは彼らの誤りを指摘される。
−マルコ2:27−28「そして更に言われた。『安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。』」

4.今日における安息日の意味を考える

・現代の私たちは、安息日をどのように考えるべきなのか。教会はイエスの復活を覚えて、安息日を日曜日にした。私たちは日曜日に教会の礼拝に参加し、神の前に静まる。それが私たちの安息だ。しかし、教会に来ることの出来ない時もある。子供の運動会がある時は礼拝を休んでいいのか、夫が病気で寝込んでいる時はどうするのか、会社に日曜出勤しなければいけない時はどうするのか、多くのクリスチャンが悩まされる。基本的にはイエスが言われた言葉「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」に従って判断すればよいと思える。私たちは神の前に安息するために教会に集まる。仮に、他の用事を神様からいただいたのであれば、それに従って安息日をすごせば良い。
・同時に、それが本当の用事、本当の安息なのかを考える必要がある。「子どもの運動会が日曜日にある」、子どもと共に過ごすことが神から与えられた安息かどうか祈って、そうだと思えば礼拝を休んで運動会に行く、それが信仰の決断だ。「日曜日に出勤しなければいけない」、多くの場合日曜出勤しなくとも業務に影響がない、とすれば労働の束縛から解放されるために日曜日の出社は断る。それもまた信仰の決断だ。「夫が病気で寝込んでいる」、夫の看護のために自分が必要だと思えば礼拝を休むこともまた信仰の行為だ。礼拝を休んでも良い、しかし夫の枕元で聖書を共に読み、共に祈るならば、もっと良い。
・カール・バルトは教会教義学の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」という表題のもとに記し、さらに安息日を巡る問題を扱う章を「祝いと自由と喜びの日」として書き始めている。彼は語る
-バルトの言葉「日曜日を『礼拝を守らなければいけない日』と考えた時、それは私たちを縛る日になる。日曜日を『礼拝に参加することが出来る日』に変えることが出来れば、私たちの人生はどんなにか豊かになるのではないか」。
・2013年4月11日朝日新聞天声人語は語る「憲法は国家権力の乱用を防ぎ、国民の権利を権力から守るものだ。憲法はこういう国をつくりたいとか、特定の価値を宣言するとか、そういう思想書的なものではない・・・ところが自民党の改正草案は何かと国民を縛りたがり、『家族は互いに助け合え』(草案24条)などと個人の領域に手を突っ込みたがる」。「休むことができる」という安息日の規定が、「休まなければいけない」という禁止規定に変化したように、「家族は助け合うことが出来る」という道徳が、「家族は助け合わなければいけない」という禁止規定に変わり、収入のある家族のいる人は生活保護を申請できないような仕組みに変わろうとしている。「律法とは何か」というイエスの問いを、「法とは何か」という視点で考えた時、今日の課題になる。
・新約学者の荒井献はその注解の中で述べる「安息日は人のためにある。この安息日を法一般に置き換えたならば、現代にも通用する普遍的原理になるであろう。つまり『法は人間のために定められたものであって、人間が法のためにあるのではない』」(荒井献「問いかけるイエス」)。筑豊じん肺訴訟では一審敗訴の国が控訴・上告を行い、判決確定までに19年を要した。この結果、原告170人のうち144人は最終判決前に亡くなった。同じ問題が水俣病訴訟、原爆症訴訟、B型・C型肝炎訴訟でも生じている。何のための、誰のための法律であるかが見失われている。官僚の態度はファリサイ人と同じだ。安息=救済がそこにない。
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