すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マルコ福音書(二巡目)  >  2017年2月22日祈祷会(マルコによる福音書2:1-17、中風の人のいやしとレビの召命)
1.中風の人をいやす

・イエスのいやしの評判はますます高まり、イエスが滞在した家(シモンとアンデレの家、1:29)には、いやしを求める大勢の人が押し寄せ、ついに家の入り口まで、人で埋め尽くされた。
−マルコ2:1-2a「数日後、イエスが再びカフアルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」
・イエスが人々に教えていると、四人の男が足腰の立たぬ中風の病人を、担架で担いで来て、いやしを求めた。しかし、病人を家の中に入れようにも、入る隙さえないほど人で埋まっていた。だが男たちはあきらめず、屋根に登り屋根を剥がして穴を開け、病人をイエスの前に吊り降ろした。イエスは彼らの熱意を認め、病人に「罪は赦された」と言われた。
−マルコ2:2b-5「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとへ連れて行くことが出来なかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人が寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」
・当時の社会では、病気は「罪を犯した人間に対する神の罰だ」と考えられていた。これはユダヤ教だけではなく、多くの宗教にある「因果応報」の考え方だ。イエスはこれを否定された「あなたの罪は赦された」、「あなたは神の怒りにより病気になったのではない。父なる神はそのような方ではない。神はあなたを愛しておられる」と言われた。その言葉に律法学者たちは「神を冒涜する言葉だ」と反発する。
−マルコ2:6-7「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれ考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神お一人のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」
・イエスは、律法学者たちが心の中でイエスを非難していることを見抜き、「私は神から赦しの権威を授けられている。その権威を今見せよう」と反論された。
−マルコ2:8-10a「イエスは彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力で知って言われた『なぜ、そんな考えを心の中で抱くのか。中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて床を担いで歩け」と言うのとどちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威があることを知らせよう。』」
・イエスが病人に「立ち上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられると、病人は立ち上がり、床を担いで出て行った。見ていた人々は驚き、イエスを賞賛した。
−マルコ2:10b-12「そして、中風の人に言われた。『私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って神を賛美した。」
・人が求めるのは信仰の報酬だ。病がいやされたい、苦しみから救われたい、だから信じる、多くの宗教はそれに応えて、病のいやしを強調する。しかし、聖書はそのような信仰を「宗教的自己追求」、あるいは「偶像礼拝」だと否定する。中風の人の病がいやされたことがマルコ2章の中心ではない。そうではなく「罪が赦されたこと」こそ、最大の恵みであり、体がいやされるかどうかは二次的な問題に過ぎない。
−三浦綾子・泉への招待から「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字通り天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。

2.レビを弟子にする

・イエスが再びガリラヤ湖の岸辺に出られると、教えを求める人々が集まって来た。イエスは彼らに福音を説かれた。
−マルコ2:13「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」
・イエスは、その後、収税所に座っているアルファイの子レビに、「私に従いなさい」と呼びかけると、彼はすぐ立ち上がり、イエスに従った。招かれた人は、マタイ福音書では「レビではなく、マタイ」になっている(マタイ9:9)。このことからマタイ福音書の著者は元は徴税人だったと推測される。
−マルコ2:14「そしてアルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上ってイエスに従った。」
・イエスは徴税人レビに、「私の弟子となりなさい」と招かれた。これは通常はありえないことだ。ユダヤ教の教師(ラビ)は罪人とされた徴税人とは交際しない、ましてや弟子に招くことなどありえない。それなのにイエスはレビを招かれた。レビは徴税人の自分に声をかけてくれたイエスに感謝し、食事に招いた。レビの仲間たちも来た。ファリサイ人はそれを見て「イエスは罪人と共に食事をしている」と非難した。彼らにとって罪人や徴税人ら汚れた者との同席は忌むべきことだった。
−マルコ2:15-16「イエスがレビの家で食事の席に着いておられた時のことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一諸に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人たちと食事をするのか』と言った。」
・ファリサイ派の律法学者の発言を聞いたイエスは、彼らに言われた「私を必要としているのは罪人である。その差別されている罪人を救うため私は来た」と。
−マルコ2:17「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」
・徴税人は異邦人のために働く故に汚れ、罪人は律法を守らぬ故に汚れているとされた。しかし、イエスは「人を罪人扱いして排除するあなた方の生き方を神は喜ばれない」と批判された。「人を罪人として排除する」、ファリサイ人人だけが行った行為ではない。初代教会も行った罪だ。マルコはこの記事を通して、無割礼の異邦人と食事をしない、教会内のユダヤ主義者にも悔い改めを迫っている。
−使徒11:2-3「ペトロがエルサレムに上って来た時、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」。
・ユダヤ人が割礼を誇ったように、私たちが洗礼を誇り、「洗礼なしには救いなし」と主張した時、私たちもまた神の国を妨げる者になる。救いは神の事柄であり、人間が決定すべきことではない。
−マタイ23:13「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。

3.これらの物語は私たちとどうかかわるのか

・現代のキリスト教徒のある人々は、「クリスチャンたる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考える。酒の害、煙草の害を考えると、自分の体を損なう酒や煙草は控えるべきだという主張にも一理はある。しかし自分が禁酒禁煙の人は、他の人々がお酒を飲み、煙草を吸うことに耐えられず、何時の間にか禁酒禁煙が信仰の中心、律法になってしまう。日本にキリスト教を伝えた宣教師の多くは禁酒禁煙のアメリカの伝統の中で育って来た。だから彼らは言う「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのですか」とイエスに詰め寄ったファリサイ人と同じである。イエスはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えて、「飲んで楽しみなさい」と言われた(ヨハネ2:11)。またレビたちの会食の場でもぶどう酒が振舞われ、イエスもそれを飲んで楽しまれただろう。それなのにイエスに従おうとする人々が、「お酒を飲む人々は地獄に堕ちます」と主張するのはおかしい、しかしそれをおかしいと思わないのが律法主義の怖さだ。
・徴税人や罪人たちは自分自身を正しいとは露ほども考えていなかった。自分自身の罪を知りながら、しかし自分の力ではどうにもできず、苦しんでいた。イエスはそれゆえにレビを弟子に招かれた。
−吉村和雄、説教黙想アレテイア2008年から「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである・・・レビは自分が医者を必要としている病人だなどと思ってもいなかった。主イエスが必要だと思ってもいなかった。しかし主イエスはそう思われた。だからレビをお召しになった」。
・私こそ罪人なのに、イエスは声をかけてくれた。そこに物語の中心がある。レビ物語は私たちの物語だ。
−汽灰螢鵐1:28「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。
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