すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.汚れた霊に取りつかれた男をいやす

・イエスは会堂や町々で教えを説き、人々をいやし続けた。イエスの教えを聴いた人々は驚いた。イエスの教えが律法学者のような知識の羅列ではなく、神の権威を帯びていたからである。
−マルコ1:21-22「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教えられた。人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
・会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて、叫んだ。イエスが霊を叱ると霊は大声で叫び、出て行った。
−マルコ1:23-25「その時、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまはないでくれ。我々を滅ぼさないでくれ。正体は分かっている。神の聖者だ。』イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」
・悪霊払いの一部始終を目撃した人々は皆、イエスの権威と、その力に驚いた。
−マルコ1:26-28「人々は皆驚いて論じた。『これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。』イエスの評判は、ガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」
・古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力を感じた時に、それを「霊」と呼び、その力が神から来るものであれば「聖霊」、神に反する悪い力であれば「汚れた霊=悪霊」と呼んだ。人々はこの悪霊が人の病気を引き起こすと考えていた。特に精神疾患のように、他人とのコミュニケーションができなくなるような状態を、「悪霊に取りつかれている」と言った。今日の私たちは悪霊を、「象徴的・神話的」存在としてとらえるがどうなのだろうか。今日でも精神分裂等の心の病を治癒できないし、多くの人が自殺するのを防ぐことも出来ない。悪霊との戦いが今日の教会でも必要とされているのではないか。

2.多くの病人をいやす

・イエスと弟子の一行は、シモンとアンデレの家を訪れ、熱が出て床に就いていたシモンの姑を、イエスがいやした。いやされた姑はすぐ起き上がり一行をもてなした。
−マルコ1:29-31「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家へ行った。ヤコブもヨハネも一諸だった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスは話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一行をもてなした。」
・シモンの姑がいやされた噂は、たちまち町中に広まり、日が暮れると病人や悪霊につかれた人々が、イエスのいやしを求めてシモンの家へ押し寄せた。イエスは彼らの病をいやし、悪霊を追い出した。
−マルコ1:32-34「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が戸口に集まった。イエスはいろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」
・翌日早朝、日の出前にイエスは起き出し、町外れの静寂な場所で一人祈っていた、
―マルコ1:35「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
・シモンたちがイエスを捜して近づき、大勢の人々が病のいやしを求めてイエスを探していると告げた。すると、イエスは「他の町へ行こう、私はもっと多くの町々で宣教するために来たのだ」と告げ、ガリラヤ中の町を回り、宣教と悪霊払いを続けた。
−マルコ1:36−39「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くの外の町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。そのために私は出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」
・イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、汚れた者とされていた人々だった。らい病を患う人に対し、イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」、癒された。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い、棺に手を触れ」、彼を生き返らせた(ルカ7:11-17)。らい病者に触れること、死者に触れることはいずれも「汚れ」として禁止されていた行為だった。「いやし」の行為は、安息日にも行われ、律法学者やパリサイ人の激しい非難と憎しみを招いた。イエスは自らの身に社会的制裁を受けることによって、病む者たちの痛みを共有された、この「痛みの共有」こそ、今の教会に必要なものではないだろうか。私たちには治癒はできないが、痛みの共有は可能だ。痛みを共有することによって「病む人」を教会に迎え、教会を安息の場として提供する。まさに教会の為すべきことと思える。

3.らい病を患っている人をいやす

・イエスの時代、らい病は罪の報いの業病とされ、人に近づくことを禁じられ、社会から締め出されていた。イエスは、そのらい病者を憐れみ、手を置いていやした。
−マルコ1:40−42「らい病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、らい病は去り、その人は清くなった。」
・重い皮膚病=ギリシャ語レプラは、ヘブル語「ツァラァト」の訳語だ。ツァラァトとは「打たれたもの」、病人は神に打たれた者、神に呪われた者として、宗教的に「汚れた者」とされた。この病気は細菌によって顔や手が崩れていくその症状から人々に忌み嫌われ、また伝染する故に恐れられていた。町の中に入ることは許されず、道を歩く時には「私は汚れているから近寄らないで下さい」と言わねばならなかった(レビ記13:45-46)。そのらい病人がイエスのところに来たことは、「近寄ってはいけない」という境界線を超えた事を意味し、彼は命がけでイエスに近づいて来た。彼はイエスに言う「御心でしたら、清めて下さい」。彼は、「治して下さい」ではなく、「清めて下さい」と求める。「らい病」者は、汚れているとして社会から排斥されていた、汚れているとされたから「清め」が必要なのだ。その必死さの中に、イエスは彼の信仰を認められた。イエスは彼に「触れて」いやされた。らい病者に触れることは律法が禁止していたが、らい病者の必死な求めに、イエスもまた律法を犯してまで対応された。
・当時のらい病者は病の苦しみだけでなく、社会からの追放という二重の苦難を負っていた。だからイエスは彼の社会復帰のために、「祭司に身体を見せ、神殿で捧げもの」をするように言われた。
−マルコ1:43−44「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モ−セが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』」
・日本のらい病者救済の先駆的働きをしたのは、明治期の宣教師たちだった(テスド・ウィドウ=御殿場・神山復生病院、ハンナ・リデル=熊本・回春病院等)。長島愛生園の医師であった神谷美恵子は「らい者に」という詩を書いた。マルコ1:40-42は多くのクリスチャンたちにイエスの後に従う行為をさせた。
−神谷美恵子“人間を見つめて”から「何故私たちでなくあなたが。あなたは代わって下さったのだ、代わって人としてのあらゆるものを奪われ、地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。」

4. 癒しをどう理解するか

・カトリック神父本田哲郎は、福音書に繰り返し出てくる「いやし」という言葉が、「文字通り“いやす”=“イオーマイ” が出るのは、マタイとマルコ両福音書について言えば合わせて五回しかない」と語る。「あとはすべて“奉仕する”という意味の “セラペオー”だ。マタイとマルコ合わせて二十一回も出てくる。英語 Therapy の語源となった言葉で、これを病人に対して当てはめると、“看病する”、“手当てする”となる。イエスにとって、神の国を実現するために本当に大事なことは、“癒し”を行うことではなくて、“手当て”に献身すること、しんどい思いをしている仲間のしんどさを共有する関わりであったことは明らかだ」と語る(本田哲郎「小さくされた人々のための福音」)。
・マザーテレサが行ったことも病気の治癒ではない。彼女は語る「私は毎朝、祭壇の上から小さなパンのかけらの主を戴いています。もう一つは、町の巷の中で戴いています。先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした。あのおばあちゃんの中に主がいらっしゃった。そのおばあちゃんを天に見送った時に、私の心の中に主が来て下さったのです」(粕谷甲一「第二バチカン公会議と私達の歩む道」から)。
・いやしは治癒ではなく、共感なのだ。イエスが与えられたのも「治癒」ではなく、「いやし=慰め」だった。治癒は神の恵みだが、いやしは私たちに委ねられた神の業なのだ。私たちには治癒はできないが、いやしならできる。その時、「ある者は治癒されて喜び、別の者は治癒されなかったが生きる勇気を与えられた」という出来事が生じるならば、そこが神の国になっていく。
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