すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.洗礼者ヨハネとイエス

・マルコ福音書は紀元70年頃に書かれた最初の福音書である。紀元64年、ネロ皇帝のキリスト教迫害の中で、ローマにいたペテロやパウロは殉教したと伝えられる。教会は支柱となってきた使徒たちを失し、混乱し、これから福音をどのように伝えていけば良いのか模索した。その中でマルコ(ペテロの弟子といわれている)が使徒たちから聞いたこと、伝承、口伝を集め、教会のためにイエスの伝記を書いた。
・マルコは福音書を、「イエス・キリストの福音の初め」と書き始める。「初め=ギリシャ語アルケー」は当時のギリシャ語訳旧約聖書の冒頭の言葉=「初めに神は天地を創造された」(創世記1:1)にも用いられていた。旧約聖書も新約聖書も「初めに」と言う言葉で始まる。この「初めに」と言う言葉を通して、マルコは「天地創造によって世界は始まったが、イエス・キリストが来られて、この天地は再創造された」と宣言している。
・そこで何が始まったのか、「福音が始まった」とマルコは言う。福音=ギリシャ語「ユーアンゲリオン」はローマ皇帝即位の告知に使われた特別な言葉だ。ローマ皇帝=世界の支配者、人類に平和と救いをもたらす皇帝の出現こそ、「ユーアンゲリオン=良い知らせ(福音)」であると帝国の人々は告知された。その言葉をマルコはイエス・キリストの出現に用いる。敬愛するペテロやパウロがローマ皇帝によって殺された状況の中で、あえて福音という特別な言葉をイエスに用いて、マルコは、「ローマ皇帝が王ではなく、イエス・キリストこそ王であり、救い主である」と、命をかけて信仰の告白をしている。
・マルコは最初に洗礼者ヨハネの登場を、マラキ3:1、イザヤ4:3を引用して語る。いずれもメシアが来ることを告げる預言である。
−マルコ1:1-4「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。その通り、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。』」
・洗礼者ヨハネは荒れ野で禁欲生活を続けていた。そのヨハネのもとにユダヤ全土から人々が集い、悔い改め、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
−マルコ1:5-6「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネの下に来て罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」
・人々はヨハネが預言された救世主(メシア)ではないかと期待したが、ヨハネはそうではないと答えた。
−マルコ1:7-8「彼は述べ伝えた『私よりも優れた方が、後から来られる。私はかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水でバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。』」

2.イエス、洗礼を受ける

・イエスはガリラヤでヨハネ宣教のうわさを聞かれ、内心の燃える思いに駆り立てられ、ガリラヤを出られた。その時、30歳であったとルカは伝える。それまでイエスは故郷ナザレで、家業である大工をされていたが、ヨハネを通して神から招きを受け、故郷を捨てて、ユダヤに向かわれた。
−ルカ3:21-23「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た・・・イエスが宣教を始められた時はおよそ三十歳であった。」
・ヨハネから洗礼を受けて、イエスの公生涯が始まる。イエスが水から上がると天から祝福の声があったとマルコは伝える。イエスはこの洗礼を通して、ご自分が神から特別な使命を与えられて世に来られたことを知られた。イエスが聞かれた「天からの声」はイエスの内面に響いた神の声であったのだろう。
−マルコ1:9-11「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が天から聞こえた。」

3.誘惑を受ける

・その後イエスは、霊によって荒れ野に連れ出され、そこでサタンはイエスを「試みた」とマルコは記す。イエスが試みに耐え抜かれた時、天使が現れてイエスを祝福した。
−マルコ1:12-13「それから霊はイエスを荒れ野へ送り出した。イエスは四十日間そこに留まり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一諸におられたが、天使たちが仕えていた。」
・マルコは誘惑の内容を詳しく書かないが、マタイはイエスが「三度試みられた」と詳述している。
−マタイ4:1-11「(イエスは)四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。誘惑する者が来て、イエスに言った『神の子なら、これらの石にパンになるよう命じたらどうだ』・・・次に悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支えると書いてある』・・・更に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて『もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう』と言った・・・悪魔は離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。」

4.ガリラヤで伝道を始め、四人の漁師を弟子にする

・イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、公の生涯を始められたが、師であるヨハネがユダヤ当局から危険人物として逮捕された事件を契機に、故郷のガリラヤに戻って、宣教を始められた。
−マルコ1:14-15「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を述べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」
・イエスが最初に為されたことは弟子の召命だった。イエスの呼びかけにガリラヤの漁師シモンとアンデレは応え、二人は網を捨てて従った。網を捨てる、職業を捨てる。何が彼らを動かしたのだろうか。
−マルコ1:16-18「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」
・その後、イエスはゼベダイの子ヤコブとヨハネが、舟で網の手入れをしているのを見て、二人も呼ばれた。ヤコブとヨハネは、網はもちろん、父(家族)も、雇い人(地位)も、舟(財産)も捨てて従った。
−マルコ1:19-20「また少し先へ進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった、この二人も父ゼベダイを雇い人と一諸に舟に残して、イエスの後について行った。」
・マルコ福音書の弟子の召命物語は、献身者の典型として記録されている。人々は、「弟子たちが全てを捨てて従ったように、あなたがたもまた全てを捨ててイエスに従いなさい」と勧められる。しかし、私たちは一つの疑問にぶつかる「人はそんなに簡単に現在の生活を捨てられるのだろうか」。イエスはガリラヤで多くのいやしを行い、神の国の福音を説かれ、イエスの行かれる所には、どこでも大勢の民衆が押し寄せた。弟子たちは民衆に絶大な人気を博されているイエスが、自分たちに声をかけてくれたから従った。「この人に従っていけば、自分たちもひとかどの人間になれるかもしれない」と期待したからこそ、彼らは職も家族も財産も捨てたのではないか。それを暗示するのがマタイ19章の記事だ。
−マタイ19:27「すると、ペトロがイエスに言った。『この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか。』」
・弟子たちはイエスに従うことが得だから従った。だから彼らはイエスが捕らえられると逃げ去った。イエスの生前、弟子たちは本当にはイエスに従わなかった。しかし、彼らの偽りの服従が真の服従に変えられる時が来る。復活のイエスとの出会いの時だ。イエスが連行された大祭司の屋敷で、三度イエスを否定して逃げたペテロに、復活のイエスは「私を愛するか」と三度迫られる。その裁きがペテロを悔い改めへと導く。ペテロは「私の羊を飼いなさい」という言葉により赦され、「従いなさい」という言葉により、新しい役割を担って立ち上がる。この時、ペテロは真の意味で弟子になったのだ。
−ヨハネ21:17「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『私の羊を飼いなさい。』」
・キリストに従うとは全てを捨てることではない。これまでの人生で蓄積してきたものを主のために生かす人生に変えられることこそ、献身だ。富んでいる人はお金を捧げることによって、時間のある方は時間を捧げることによって、献身の生活に入る。キリストは私たちに「信徒ではなく、弟子」になることを求めておられる。信徒は自分の救いを願い、弟子は他者の救いを願う。私たちも二つのバプテスマ、「水のバプテスマ」を通して信徒に、「霊のバプテスマ」を通して弟子になって行く。
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