すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.「やもめと裁判官」のたとえ

・イエスは先に「熱心に祈り求める」ことの例として、「夜中の友人」のたとえを語られ、「夜中にパンを求めるような、迷惑な祈りであっても、必死の祈りは神に聞かれる」と語られた。
−ルカ11:5-8「真夜中に友だちのところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友だちが私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです』。その人は家の中から答えるにちがいない『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちは私のそばで寝ています』・・・その人は・・・執拗に頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。
・イエスは、「辛抱強く絶えず祈り続ければ祈りは必ず聞かれる」例として、このたびは「やもめと裁判官のたとえ」を用いて祈りの心構えを教えられた。
−ルカ18:1-3「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては『相手を裁いて、私を守ってください』と言っていた。」
・この裁判官は「神を畏れぬ、人を人と思わぬ」人だった。裁判官は当初はやもめの訴えを無視していた。訴えを聞いても賄賂や報酬を彼女から期待できないからだ。それでも何度も何度も来られたらうるさくてたまらない。そのために彼は訴えを聞くことにした。
-ルカ18:4-5「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私をさんざんな目に遭わすにちがいない』」。
・不正な裁判官でさえ、必死に求める者には便宜を図る。そうであれば、「公正な裁判官である父が祈りを聞かれないことがあろうか」とイエスは語られる。
−ルカ18:6-8a「それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている、選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。』」
・やもめは貧しい者の象徴として、神も人も畏れぬ裁判官に立ち向かう。彼女には裁判官を動かす蓄えもなく、知己もない。彼女は持ち前の執拗さで裁判官を動すしかなかった。イエスが教えたかったのは、この神も人も畏れぬ裁判官が、やもめの執拗さに根負けして、やもめに有利な裁判をするとしたら、慈愛の神がその子らの祈りを聞いてくださらぬはずはないということである。
・祈りを歌った讃美歌(教団讃美歌308番「祈りは口より出でこずとも」)を共に読みたい。
1.祈りは口より出でこずとも 真の思いのひらめくなり 祈りは心の底に潜み 隠るる炎の燃え立つなり。 
2.祈りは幼き唇にも 言いうるた易き言の葉なり 祈りは天なる御蔵までも 気高く聞こゆる歌にぞある。 
3.祈りは悔いたる罪人らの 迷いの道より帰る声ぞ み使聞きつつ琴を奏で 妙なるみ歌を合わせ献ぐ。
4.祈りは御民の命を得る 聖けき御霊の風にぞある いまわの時には父の家の み門の開くる合い言葉ぞ。

2.「ファリサイ派と徴税人」のたとえ

・イエスは自分は正しいとして他人を見下している人の祈りは聞かれないとして、「ファリサイ派と徴税人」のたとえを語られた。
−ルカ18:9「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」
・まずファリサイ人が立ち上がり、自分こそ神の前に正しい者、神のみ旨に従う者、徴税人のように罪深くない者であると胸を張って祈った。ファリサイ人は律法と口伝の慣習法に精通し、自分達こそ神の国を継ぐにふさわしい者と自負し、人々から畏怖されていた。
−ルカ18:10-12「『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って心の中でこう祈った。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」』」
・ユダヤ教のラビ、ベン・ハッカナーの祈りが伝えられている(パレスチナ・ベラコート)。ルカ18章のファリサイ人の祈りと共通している。
−ベン・ハッカナーの祈り「わが神、私はあなたが私に律法の教えの家と集会堂に座す人々に連なる者とさせて下さったこと、私を劇場や演技場に連なる者となさらなかったことに感謝します・・・私は楽園を得るために努力しますが、彼らは墓の泉のために努力しているのです。」
・一方徴税人は、はるか離れた神殿の後方に立ち目を伏せたまま、罪の赦しと憐れみを乞うた。ファリサイ人からみれば、徴税人は敵国ロ−マの手先となり、同朋のユダヤ人から税金を絞り取る罪びとだ。徴税人は汚れた自分を神の前に恥じていた
−ルカ18:13「『ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」』」
・イエスは両者を評して「正しいとされたのは徴税人である」と言われた。周りの人々は驚いた。当時のユダヤ教では義とされる=救われるのは、モーセ律法を順守することであると考えられていた。イエスの「人は神の恵みによって救われる。だから悔い改めよ」との教えは、その常識を覆すものであった。
−ルカ18:14「『言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」
・親鸞は「歎異抄」の中で、「悪人正機」(善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや)を唱えた。「悪人こそが、帰依、信仰すべきご本尊の阿弥陀仏が救済を願っている対象の人間である」とする親鸞の考えは、驚くほどイエスの思想と似ている。おそらく、イエスの教えが中国の景教(ネストリウス派キリスト教)を経て、日本に伝わったのであろう。
−ルカ15:7「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

3.子供を祝福する

・ユダヤの習慣では、満一歳になった子供を、ラビに手を置いて祝福してもらう習慣がある。この時もイエスに祝福してもらおうと、親達が乳飲み子を連れて集まって来た。しかし、弟子達は子供達を追い払おうとした。見ていたイエスは弟子達を制し、乳飲み子たちを近くに招き寄せた。
−ルカ18:15「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。」
・イエスは「子供のように神の国を受け入れる者こそ救われる」と弟子達に教えられた。
−ルカ18:16-17「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはなたない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこへ入ることはできない。』」
・イエスは神の国は、この子供達のような者の国だと言われた。子供の生活はすべて親に対する信頼から成り立っている。幼い子供は両親のもとで、食事ができ、遊び、夜眠れることに何の疑念も抱かない。学校に行っても旅行に行っても、親がすべての費用を払うのは当然と思い、何の疑いもない。幼な子の両親に対する信頼、神に対する信仰も正にそのようなものである。それに対し、大人は自分の力で生きて行くべきだと思い、救いを自分の手で獲得しようとする。イエスは言われる「神の救いは人間の業績に応じて与えられるものではなく、必要に応じて与えられる。だから助けを必要としている小さな者たちにこそ、神の国が約束されている」と。
・「幼な子のようになる」とは、自分の弱さを認め、助けなしには生きていけないことを認めることだ。神を信じることの出来ない人は人を信じることも出来ないから、他者が常に自分の競争相手となり、彼には平安がない。自分が弱いことを認め、弱い存在のままで神に受けいれられている事を知る時、その弱さが強さになる。それが幼な子の強さであり、それが神の国に入る唯一の道であるとイエスは言われている。
−第二コリント12:7-9「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
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