すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マタイによる福音書  >  2003年3月19日  マタイ20:1−16  ぶどう園の労働者のたとえ
1.多く働いたものと少なく働いたもの。

・ぶどう園の主人が収穫のために労働者を雇いに行った。主人は夜明けに市場に行き、1デナリの約束で雇った。
―マタイ20:1-2「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。」
・しかし、収穫期の今、仕事は忙しく、労働者が足らない。彼は9時に再び市場に行き、新たな労働者を雇った。この時には、1デナリの約束はしていない。「相応しい賃金を支払おう」と約束しただけだ。
―マタイ20:3-4「それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』」。
・主人は12時にも、また3時にも、最期には5時にも新しい労働者を雇う。こうして1日が終わり、支払いの時が来た。最期に雇われた者は12分の1デナリを予期している。彼等は1時間しか働いていないからだ。
―マタイ20:8-9「夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。」
・1時間労働者に1デナリが払われたことで、12時間働いた者はもっともらえると期待した。しかし、彼等に支払われたのも1デナリだった。期待が膨らんだ分、それが不平に変る。
―マタイ20:10-12「最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱した私たちと同じ扱いをなさいました』。
・彼等は一日1デナリの約束で雇われた。だから1時間労働者の賃金が少なければ彼等も1デナリで満足したであろう。しかし、一時間労働者の賃金は自分たちと同じだったから、彼等は不平を言った。

2.多く働いた者の罪

・最後に来た人たちは一日中立って待っていたが、誰も雇ってくれなかった。そこに、主人が来て彼らを雇い、思いがけずに1デナリをくれた。最期に来た労働者たちは主人の慈しみに感謝した。
―マタイ20:6-7「五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれも私たちを雇ってくれませんから』と答えた。」
・この主人の慈しみが人間をつまずかせる。主人は不平を言った労働者達に「何がいけないのか」と問う。
―マタイ20:14-15「自分の賃銀をもらって行きなさい。私はこの最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。・・・それとも私が気前よくしているので、ねたましく思うのか」。
・妬むと訳された言葉はギリシャ語では「悪い目」と表現されている。英語聖書はそれを忠実に訳している。
―マタイ20:15「'Is it not lawful for me to do what I wish with my own things? Or is your eye evil because I am good?」'
・彼らは、他者の賃金が低ければ満足した。その結果、労働者の家族がパンを買うことが出来なくとも彼等は関知しない。この悪い目、自分の満足のために他人を捨てる目はいたるところにある。放蕩息子の兄もそうだ。
―ルカ15:29-30「兄は父に向かって行った『私は何年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。遊女どもと一緒になってあなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』」。
・この世は働けないものの悲しさや苦しさは考慮しない。それは生産性に何の寄与もしていないからだ。聖書は主張する、神にとって役立たずの人はいない。それぞれが役割をもって委託された人生を生きる。
―ルカ19:9-10「イエスは彼(ザアカイ)に言われた『今日、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである』」。
・救いは私たちの側から何かをした結果生じるものではなく、神の側からの一方的な恵みである。その時、12時間働こうが、1時間だろうが、神の恵みの前には何の違いもない。
―汽茱魯4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」
・それを忘れた時、私たちは他者を裁く「あの人が救われるのは許せない」と。その時、私たちは後になる。
―マタイ20:16「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
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