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トップ  >  マタイによる福音書  >  2002年4月24日  マタイ3:1−17  バプテスマのヨハネ
1.福音書はバプテスマのヨハネの宣教から始まる。

・バプテスマのヨハネはエッセネ派の出身だと考えられている。
―エッセネ派は世の穢れから自由になるために、世俗を離れ、荒野で集団生活をしていた。ヨハネはエッセネ派の修道生活に飽き足らず、神の召命を受けて人々に福音を述べ始めた。
・イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた。おそらくは最初はヨハネの弟子として修養し、後に独立して宣教を始めたと思われる。
―マルコ1:9-14「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
・・・ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」

2.ヨハネの教え

・バプテスマのヨハネが伝えたものは罪を悔い改め、新しい生き方をせよとの教えだった。
―ルカ3:3‐14「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。・・・群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
・ヨハネはバプテスマを受けようと来たサドカイ派やパリサイ派の者達を蝮の子と批判している。
―サドカイ派は神殿に参り、献げものを捧げれば救われると説いた。パリサイ派は律法を守れば救われると説いた。自分を正しいとする者には救いはない。彼等は神を人間の操り人形と考えている。
―マタイ23:29-33「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。・・・蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」
・神に従うとは神殿で礼拝を守ることではなく、律法を形式的に守ることでもない。それは神を愛し、人を愛することである。
―アモス書5:21-24「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても/穀物の献げ物をささげても/わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」

3.ヨハネのバプテスマとイエスのバプテスマ

・ヨハネは水のバプテスマのみでは十分ではないと言っている。
―マタイ3:11「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
・ヨハネの水のバプテスマは人を悔改めに導くのみ、救われるためには罪の赦しのための聖霊によるバプテスマが必要である。悔改めと赦し、その二つを持たない者は本当の弟子になれない。
―キリスト抜きのヨハネ信者=霊によって変えられた経験をもたないため、信仰生活に喜びがない。信仰を知らない道徳家、審きを語る律法主義者。
―ヨハネ抜きのキリスト信者=信仰の実が行いとして現れることを知らず、自分の救いしか関心がない。行いが伴わないキリスト者、愛だけで義を求めないキリスト者。

4.キリストの弟子になること

・ヨハネ的な生き方(キリストを指し示す)が弟子の行き方である。
―ヨハネ3:29-30「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
・私たち自身が世に宛てられたキリストの手紙なのである。
―2コリント3:3「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」
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