すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.放蕩息子の帰郷

・ルカ15章11節から始まる「放蕩息子の譬え」は、イエスの譬え話の中で最も有名な譬えであろう。この物語は、「ある人に二人の息子がいた」という言葉で始まる。弟息子は堅苦しい父と兄との生活にうんざりし、家を出て行く決意を固め、父親に財産の分け前を要求する。父は息子が失敗する危険が高いことを見越していたが、息子の意思を尊重し、財産である土地や家畜を分け与え、弟息子は財産を金に換え、遠い国に旅立った。
−ルカ15:11-12「イエスは言われた。『ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、“お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前をください”と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。』」
・弟息子はお金を湯水のごとくに浪費し、使い果たしてしまう。その時、ひどい飢饉が起こり、彼は食べるものにも困るようになり、豚を飼う者となる。豚はユダヤ人にとっては汚れたもの、その世話をする弟息子は落ちるところまで落ちたことを意味する。彼は終には、豚のえさであるいなご豆でさえ食べたいと思うほど飢えに苦しむ。
-ルカ15:13-16「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たした時、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せた処、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」
・人は落ちるところまで落ちた時、初めて目が覚める。弟息子は「豚のえさを食べても飢えをしのぎたい」と思った時に、我に返り、父の家へ帰ることを決意する。しかしただで帰れない。彼は「もう息子と呼ばれる資挌はない。雇い人として使ってほしい」と頼み込むことを決意する。
−ルカ15:17-19「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。“お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。”』」
・私たちもこのような状況に追い込まれる時がある。「自分には何の価値もない。誰も私を愛さないし、気にもかけない」。苦しみだけを見つめる時、苦しみはますます大きくなり、圧倒し、ある人はそれに負けて死を選ぶ。しかし、その時「私には帰る場所がある」ことに気づく者は、その闇から抜け出すことが出来る。放蕩息子は「父の子」であることを思い起こし、自分が「失われた人間」であることを認めた。自分の罪を自覚した彼は、どのような裁きを受けようとも、父の家に帰ることを決意する。ここから救いが始まる。

2.父の無条件の赦し

・父親は息子の身を案じ、いつ息子が帰るかと待っていた。ある日、その息子の姿が見えた。父は「まだ遠く離れていたのに息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。彼は息子が帰ってきたことを無条件で喜ぶ。
−ルカ15:20-23「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
・父からの強い叱責を覚悟していた息子は、父に会うとすぐに謝罪の言葉を口にした。しかし、父親は息子の謝罪の言葉をさえぎって使用人に、「いちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と命じる。
-ルカ15:22-23「父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。』」
・「最上の着物を着せる」、奴隷としてではなく子として迎える。「手に指輪をはめる」、指輪には印章がついており、彼を再び相続人として迎え入れたことを意味する。「足に履物を履かせる」、奴隷は履物を履かない。父親はこの放蕩息子を無条件で赦し、再び「息子」として迎えた。
-ルカ15:24「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。」

3.弟の帰還を喜ばない兄

・25節から物語は後半に入り、主役は兄息子になる。兄は弟が家を出た後も父の元に残り、仕事を手伝っていた。その日も兄は畑で一日働いた後で、家に戻ってくると、家の方から、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。事情を知った兄は怒り、家に入ろうとしなかった。
−ルカ15:25-28「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。」
・父親は怒る兄を宥めるが、兄の不平は収まらず、彼は父親に苦情を申し立てる。
-ルカ15:29-30「しかし、兄は父親に言った。『この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』」
・自分は正しいと思っている人間は、罪人が救われることを喜ばない。そうでないと、自分は何のために、正しい生活をしてきたのかの意味がなくなるからだ。彼は兄だから家に留まった。もし彼が次男に生まれていれば、彼もまた家を出たかも知れない。彼は父親に忠誠を尽くしたが、それは父を愛するためではなかった。ここにおいて、この兄もまた「失われた人間」であることが明らかになってきた。
-ルカ15:7「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
・父は弟息子を愛するように、兄息子をも愛している。だから兄息子に「死んだと思っていた弟が帰って来たのだから、宴を開いて喜ぶのは父として当然ではないか」と共感を求めて、この物語は終わる。
-ルカ15:31-32「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。

4.譬えの意味するもの

・この物語の直接の聞き手は、ファリサイ人と律法学者だ。イエスが徴税人たちと話をしている処に、ファリサイ人らが来て、「あなたは罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と批判した。徴税人は支配者ローマのために徴税活動をする者として忌み嫌われ、罪人とは律法を守らない人々を侮蔑して言われた言葉だ。それに対して、イエスが語られたのが「放蕩息子の譬え」だ。文脈から見て、「帰ってきた放蕩息子」は徴税人や罪人を指し、「弟の帰還を喜ばない兄息子」がファリサイ人や律法学者を指す。シュニーヴィントは語る「イエスは悔い改めた罪人を励ますために、この譬えを語られたのではない。それはイエスの罪人への愛につまずくファリサイ派へ、そして自分を正しいとする私たちへ語られている」。
-マタイ21:32「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
・この物語の主人公は誰なのか。悔い改めた弟息子なのか、弟の帰還を喜べない兄息子なのか。カトリック司祭ヘンリー・ナウヘンは、本当の主人公は「弟息子を赦し、兄息子をなだめる父親」だと言う。彼は言う「もし放蕩息子の物語の意味するものが、人間は罪を犯し、神はそれを赦すというだけなら、私たちはこの物語の本当のメッセージを理解していない。この物語が私たちに問いかけるものは、あなたは情け深い御父の息子であり、相続人であることだ。御父から受けたのと同じ憐れみを他の人に差し出すことが定められている。御父のもとに帰ることは、父になるという課題を引き受けることだ」(ヘンリー・ナウエン「放蕩息子の帰郷」)。他者を無条件で赦し、迎え入れる時、そこには必ず奇跡(相手の人格の生まれ変わり)が起こる。だから「あなたもこの父のようにしなさい」と語られている。
-ルカ6:35-36「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
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