すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ルカ福音書(二巡目)  >  2016年6月1日祈祷会(ルカによる福音書7:24-50、洗礼者ヨハネと罪ある女の赦し)


1.イエスにつまずく人々

・バプテスマのヨハネはヘロデにより幽閉されていたが、獄中でイエスの言動を聞き、この人は本当にメシアなのかを疑い、弟子たちをイエスのもとに派遣した。ヨハネが期待したメシアは不信仰者たちを裁き、新しい世を来たらせる裁き主であった。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、異邦人を癒されていた。イエスはヨハネの使いに「あなたたちが見たままを伝えなさい」とお答えになった。
−ルカ7:22-23「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」。
・ヨハネはイエスにつまずいた。裁きの時に罪人は滅ぼされるべきなのに、イエスは罪人の救いのために尽力される。神の国は裁きではなく救いであることをヨハネは理解できなかった。しかしイエスは自分の師であった洗礼者ヨハネの働きを高く評価しておられた。
-ルカ7:24-28「ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。『あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させようと書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。』」
・イエスはヨハネの働きを称賛した。民衆はヨハネの正しさを認めた。しかしファリサイ人や律法学者はヨハネを認めなった。自分たちの方が上だと思っていたからである。
−ルカ7:29―30「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人でさえも、そのバプテスマ(洗礼)を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼からバプテスマ(洗礼)を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。
・イエスに群がる人々の中にも、遊びに溶け込めない子供のように、イエスの福音を頑なに拒んでいる人々がいた。イエスは彼等を子供の遊び歌で風刺された。
−ルカ7:31-33「『では、今の時代の人を何にたとえたら良いのか。彼らは何に似ているか。広場に座って、たがいに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。」
・ヨハネが来て「罪を悔い改めよ」と言うと、「ヨハネは人間の罪ばかりをみて、悔い改めよとしか言わない。彼は悪霊につかれている」と批判し、イエスが来て「喜べ」と言うと、「イエスは断食もせず、罪人と交わっている。大食漢の大酒飲みで、徴税人や罪人の仲間だ」と受入れない。人々はヨハネにもイエスにもつまずいた。
-ルカ7:34-35「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」だと言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。』」
・イエスは「私につまずかない人は幸いである」といわれた。「つまずく」の原語は「スカンダロン」、この言葉から英語「スキャンダル」が生まれた。イエスは「目の見えない人、足の不自由な人、病を患っている人、耳の聞こえない人、貧しい人」の処に行かれた。それは当時の人々が「罪びと」として排斥していた人々であり、当時の人々が「不快だ」と思っていた人々である。イエスは彼らにこそ救いが必要だと判断され、行動された。そのイエスに人々はつまずいた。
-ルカ5:31-32「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」

2.罪深い女を赦す

・ファリサイ人シモンがイエスを食事に招いた。彼らの中にもイエスに好意を寄せている人々がいた。
−ルカ7:36「さて、ファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」
・しかし、その食事の席に現れた女の思いがけない行為により、シモンの好意は崩れた。その女はイエスに愛と尊敬を表す行為を続け、イエスは女のなすがままに任せた。
−ルカ7:37-38「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスに接吻して香油を塗った。」
・シモンはこの女が「罪ある女」であることを知っており、世の道徳の手本であるべきイエスが、罪ある女に足や手を触れるのを許すとは何たることかと憤慨した。シモンはイエスにつまずいた。
−ルカ7:39「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」
・イエスは女の接吻と涙を受け入れた。イエスはシモンに向かって、「金貸しと借り手の譬え」を話された。譬えの言葉を借りるなら、イエスは彼女の借りを帳消しにしてやったのである。
−ルカ7:40-42「そこで、イエスがその人に向かって、『シモン、あなたに言いたいことがある』と言われると、シモンは、『先生、おっしゃって下さい』と言った。イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』」
・シモンは正しく答えた。しかし、シモンはイエスの頭にオリ−ブ油を塗らなかったし、イエスの足を洗おうともしなかった。シモンの客を迎える礼義は女に敵わなかった。彼に感謝がなかったからである。
−ルカ7:43-46「シモンは、『帳消しにしてもらった額の多い方だと思います』と答えた。イエスは、『その通りだ』と言われた。そして女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか。私があなたの家に入った時、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリ−ブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。』」
・マルコとマタイは女性の名前を記さない。ヨハネはイエスに油を注いだ女性は「ベタニア村のマリア」だったと言う(ヨハネ12:3)。ルカはこの女性を「罪深い女」と表現した。この女性は、以前は娼婦だったのではないかと学者は想像する。「罪深い女」とは娼婦を暗示する言葉であり、何よりも300デナリもする香油を普通の女性が買うことは出来ないからだ。かつて娼婦として社会からつまはじきされていた女性を、ある時、イエスが一人の人格を持つ人として対応してくれた。女性は震えるほどうれしかった。その時の感謝が女性にこの異常な行為をさせたのではないかと思われる。
−ルカ7:47-50「『だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。』そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』と考え始めた。イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」
・この女性はその後どのようになったのか、ルカは何も語らない。彼女はおそらく今までの生活と訣別し、新しい生活を始めたと思われる。もしかすると、エルサレムでイエスが十字架に死なれた時、その処刑場の下でイエスを見守るマグダラのマリアだったのかもしれない。別な人は「この女性はヨハネ8章の姦淫を赦された女性かもしれない」と想像する。同じ罪の女の赦しがそこに記されているからだ。
-ヨハネ8:10-11「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』〕
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