すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.安息日に麦の穂を摘む

・ファリサイ人たちは、イエスの宣教や奇跡の数々を苦々しく思い、イエスの行動すべてを目の敵にするようになってしまい、彼らはイエスの粗探しを始めた。そして、彼らが目を付けたのが安息日問題だった。安息日に、麦の穂を摘んで食べるイエスの弟子たちを見たファリサイ人は、その行為を安息日には許されない労働と決めつけ、イエスに論争を挑んだ。
−ルカ6:1−2「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った」。
・当時の安息日禁止規定は複雑多岐であった。「禁じられた仕事の条項」によれば、刈り入れ、食事の支度、荷物の運搬など39の基本項目があり、それを基にさらに枝葉の規定を加えられ、安息日の行動はがんじがらめに縛られていた。穂を摘む行為は刈り入れになり、手で穂をもんでもみ殻を取り除く行為は脱穀になった。いずれも安息日の禁じられた仕事にあたる。しかしイエスは反論される。
−ルカ6:3-4「イエスはお答えになった。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だった時に何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。』」
・ダビデと従者は、敵に追われて空腹になった時、幕屋に入り、祭司だけしか食べられないパンを食べた(サムエル上21:1−6)。聖なるパンをダビデと従者が食べたが、咎められなかった。「人間を飢えから救い、生かすことは、安息日の規則より優先するのではないか」とイエスは問いかけられる。意表を突く答えであった。そして言われた「神は安息日よりも人を大事にされる」と。
−ルカ6:5「そして、彼らに言われた。『人の子は安息日の主である』」。

2.安息日に手の萎えた人をいやす

・イエスは安息日に度々人を癒された。イエスが癒された病はいずれも慢性病であり、翌日に延ばしても良かったのに、あえて安息日に癒された。
−ルカ6:6-10「安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気を癒されるかどうか、注目していた・・・イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。そして、彼ら一同を見回して、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元通りになった」。
・安息日は、神の創造の業を覚えるためであり(出エジプト記20:8-11)、神による救済を感謝する日であった(申命記5:12-15)。しかし、いつの間にか安息日に仕事を行う者は呪われると変えられた(出エジプト記31:14「安息日に仕事をする者は、民の中から断たれる」)。イエスは禁止規定に堕していた安息日を、本来の「祝福」に戻そうとされた。
−ルカ6:9「イエスは言われた『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか』」。
・ファリサイ派の人々はイエスが安息日に癒しを行うかどうかを注視していた。彼らは片手の萎えた男の癒しよりイエスの安息日破りを問題にした。だからあえて安息日に癒されるイエスに、彼らは怒り狂った。
−ルカ6:10-11「そして、彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」。

3.十二人を選ぶ

・イエスは宣教の業を広め継承させるため、弟子の中から12人を選んだ。彼らは後に12使徒と呼ばれる。
―ルカ6:12−16「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選び使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フイリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。」
・イエスに選ばれた12人はごく普通の人たちであった。富裕でもなく、有名でもなく、社会に大きな影響力を持つような人物でもなく、教育程度の高い人々でもなかった。それまでの弟子たちは、イエスに付き従い、イエスの教えを聞き、イエスの業を目の前にしていたものの、傍観者に近い者たちだった。その彼らをイエスは宣教の協力者、働き人と変えられた。

4.幸いと不幸

・マタイ福音書の「山上の説教」と対比して、ルカ福音書の説教は「平地の説教」と呼ばれる。平野で為されたからである。
−ルカ6:17−18「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、テイルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また、病気を癒していただくために来ていた・・・群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとしていた。イエスから力が出て、全ての人の病気を癒していたからである。」
・平地の説教は幸いと不幸の二部に別れ、対比されることで印象が強くなっている。
−ルカ6:20−23「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれる時、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。』」
・イエスの説教はルカとマタイでは微妙に異なる。
−マタイ5:3-10「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる・・・平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。
・ルカにはマタイにはない「災いの言葉」がある。
−ルカ6:24−26「『しかし、富んでいるあなたがたは不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは不幸である。あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である。あなたがたは悲にしみ泣くようになる。すべての人にほめられる時、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者に同じことをしたのである。』」
・マタイもルカも同じイエスの語録資料をテキストにしており、原型は次のような伝承だったとされている「何と幸運な者だ、貧しい者は、彼らには神の王国がある。何と幸運な者だ、飢えている者は、彼らは腹いっぱいに満たされるだろう。何と幸運な者だ、泣いている者は、彼らは笑うだろう」。伝承を見ると、ルカの方がオリジナルに近い。しかしルカの「災いの言葉」はそこにはなく、マタイの付加する「心の貧しい者」、「悲しむ者」「義に飢え渇く者」という言葉もない。ルカはイエスの言葉伝承に「災いの言葉」を付加してイエスの言葉を強調し、マタイは「心の」「義に」等の言葉を加えて、イエスの教えを内面化した。
・イエスは文字通り、「貧しい者、飢えている者は幸いである」と祝福された。福音書によれば、イエスの宣教に積極的に応答したのは、取税人や遊女、異邦人等の社会的に疎外されていた人々であり、反発したのはファリサイ人やサドカイ人等の支配階級だった(マタイ21:31)。まさに「貧しい者」、「泣いている者」、「飢えている者」がイエスを受け入れ、「富んでいる者」、「満腹している者」、「笑っている者」はイエスを拒否した。今、満足している者は神を求めず、満たされていない者は求める。そして求める者には命が与えられ、求めない者には与えられないとしたら、「今、満たされていない者が祝福されるのは当然ではないか」とイエスは言われた。
・そのイエスの言葉を、それから50年後の紀元80年代にルカとマタイが聞いている。イエスの時代とは環境が変わった。ユダヤはローマに滅ぼされ、エルサレム神殿は破壊され、祭司たちはいなくなった。ユダヤ教はファリサイ派を中心とする律法宗教になっている。教会の人々も、第一世代の弟子たちのように、全てを捨ててイエスに従うのではなく、定住して生活している。経済的にも安定し、明日のパンがない状況ではなく、逆に安定と富が彼らの信仰を揺るがし始めている。このような中で、ルカは貧しさを強調するために四つの祝福に四つの災いを付加し、マタイは時代の変化に応じた修正をした。福音書は単なるイエスの伝記ではなく、その時代の人々がイエスの言葉をどのように聞いていったかの記録なのである。
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