すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨハネ福音書(二巡目)  >  2015年8月19日祈祷会(ヨハネ福音書21:1−25、がリラヤでの復活者イエスとの出会い)
1.イエス、七人の弟子に現れる

・ヨハネ21章は後代の付加である。20章で完結しているヨハネ福音書に、さらに21章が付加されている理由は、イエスの死と復活で、すべてが終わったのではないことの確認である。イエスの死と復活を現実として受けとめ、それを転機として、宣教の使命が、イエスから弟子ペトロに継承された、宣教の業が新しい出発点に立ったことを事実で示そうとした。それが21章付加の意義と考えられる。
−ヨハネ21:25−26「これらのことに証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、たくさんある。私は思う、その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」
・21章は、エルサレムで弟子たちの前に現れたイエスが、今度はガリラヤにおいて弟子たちに現れたと書き始める。イエスは復活された日の夕方、弟子たちのいる所に現れた時、弟子たちに「ガリラヤに行きなさい。そこで会おう」と言われた(マタイ28:7)。そのガリラヤでのイエスとの再会、三度目の復活のイエスの顕現を伝えるものが、ヨハネ21章の記事だ。
−ヨハネ21:1−3「その後、イエスはティベリアス湖畔で、弟子たちに御自身を現わされた。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、『私は漁に行く』と言うと、彼らは、『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」
・イエスがティベリア湖畔で弟子たちと再会するこの箇所は、共観福音書のイエスと弟子たちの最初の出会いの場面を想起させる。聖書学者たちはマルコ1章の弟子の召命、ルカ5章のペテロの召命等は復活のイエスとの出会い体験が反映しているのではないかと推測する。
−ヨハネ21:4−6「既に夜が明けたころ、イエスが岸辺立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べる物が有るか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引きあげることができなかった。」
・弟子たちは、初めイエスが分からなかった。聖書は復活後のイエスの容貌の変化を具体的に記していないが、いちばん身近だった弟子たちにも分からぬほど変っていたことは確かである。復活はただすべてを、元へ戻すのではなく、イエスの姿まで新しく変えていたと考えられる。
−ヨハネ21:7−8「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟に戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。」
・ペトロの後ろから、多くの魚を積んで重くなった舟が続いた。岸に着くと、彼らは網を下ろし、イエスと共にパンと魚で食事をとる。弟子たちにとってこの日の会食は忘れられないものになった。
−ヨハネ21:9−11「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった。」
・後に教会は自分たちのシンボルとして「魚」を選ぶ。魚、ギリシャ語「イクスース」、「イエスス・クリストス・セオウ・フイオス・ソテール=イエス・キリスト、神の子、救い主」の頭文字だ。イエスと共に、パンと魚を分け合って食べた。復活されたイエスと共に「主の晩餐」をいただいた。それを記念している。
−ヨハネ21:12−14「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来てパンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活された後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」

2.ペトロへの牧会委託

・食事の後、イエスはペトロに、「私を愛しているか」と問われた。
−ヨハネ21:15−16「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがよくご存じです』と言うと、イエスは、『私の小羊を飼いなさい』と言われた。二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『私の羊の世話をしなさい』と言われた」。
・三度目にイエスが「私を愛するか」とペテロに聞かれた時、ペテロは自分が三度イエスを裏切ったことを思い起こし、悲しくなって、イエスの前に跪いた。
−ヨハネ21:17「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『私の羊を飼いなさい。』」
・十字架の前、ペテロは「あなたのためなら命を捨てます」と大見得を切った(13:37-38)。このような傲慢な信仰は砕かれなければならない。だから、ペテロはイエスを三度も裏切るというつらい体験をさせられた。人は挫折を通して神に出会う。挫折し、罪を告白し、悔い改めた者が始めて、神の委託に応えることが出来る。だからイエスは悔い改めたペテロにご自分の群れ、教会を委託された。ここに牧者の要件がある。牧者、あるいは牧師の資格は、神学の勉強をした、聖書に精通している、指導力がある、人格的に優れていることではない。自分の弱さを知り、その弱さを赦された体験を持つ者だけが、牧者として召される。自分の弱さを知る故に他者の弱さを責めず、赦された故に他者を赦すことが出来るからだ。

3.食事の後に

・ペテロに教会を委託された後で、イエスは言われる「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」。他の人に帯を締められ=逮捕されて、両手を伸ばして=十字架に両手をはりつけにされて、ペテロが殉教の中で死ぬであろうことをイエスは預言される。ペテロは30年後(紀元63年)、ローマ皇帝ネロのキリスト教徒迫害時に十字架で殺されたと伝えられている。
−ヨハネ21:18−19「『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『私に従いなさい』と言われた』。
・ペトロは他の弟子たちのことが気にかかり、イエスに尋ねる「彼らはどうなるのですか」。
−ヨハネ21:20−22「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子はあの夕食のときイエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。』」
・この愛弟子ヨハネ(使徒ヨハネ)は、その後エペソに行き、そこで天寿を全うして死んだと伝えられている。そのヨハネの弟子の一人が、師から聞いたことを文書にまとめた、それがヨハネ福音書であると考えられている。イエスから愛された弟子、ゼベダイの子ヨハネがイエスの思い出を語り、それを後代の弟子たちが編集したとされる(編集者は使徒ヨハネと区別するために、長老ヨハネと呼ばれる)。
−ヨハネ21:23−24「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった。しかし、イエスが彼は死なないと言われたのではない。ただ、『私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか』といわれたのである。」
・「あなたは私に従いなさい」、ある人はキリストのために死ぬことを通して神の栄光を現し、別の人はキリストを証しする福音書を書くことで神の業を担う。人はそれぞれの賜物と使命を与えられ、それぞれの場で神の栄光を現わす。「ヨハネにはヨハネの道があり、あなたにはあなたの道がある。あなたは私に従いなさい」とイエスは言われる。現代の私たちもある人は宣教の才能に恵まれ、他の人は奉仕の心にあふれている。それぞれの人が自分の出来ることを精一杯していけば良い、そこに共同体としての教会が生まれる。
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