すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マタイ福音書(二巡目)  >  2014年6月25日祈祷会(マタイによる福音書15:21−39、異邦の地での奇跡物語)
1.カナンの女の信仰

・イエスは手洗い論争でユダヤ教指導者と衝突した後、弟子たちとシリア地域のティルスとシドンへ旅した。ティルスはガリラヤの北約20キロの港町、シドンはティルスより、さらに北35キロの町であった。ティルスもシドンも共に古代世界で繁栄を謳歌した町であったが、繁栄が堕落を招いてしまった地である。異邦への旅は、イエスの公生涯中ただ一度であった。異国の地でイエス一行を迎えたのは、その地の貧しい下層の民であった。
・イエスが異国の地で奇跡の業をされようとは、弟子たちには予想も出来ないことであった。一行の旅は隠密だったからである。その密かさを破ったのがカナンの女であった。彼女はティルスの町を行くイエス一行を、叫びながら何処までも追いかけて来た。彼女は悪霊に憑かれた娘の癒しを求めて、なりふり構わずイエス一行に付き纏った。イエスの癒しの業は、この異国の地にも知れ渡っていたからである。
‐マタイ15:21-22「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」。
・女の追跡を煩わしく思った弟子たちから、女を追い払ってほしいと頼まれたイエスは、女の願いを一応聞くことにした。しかし、イエスの返事は「私はイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」というすげないものだった。女は怯まず、イエスに食い下がった。
‐マタイ15:23-24「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』。イエスは、『私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」。
・女は諦めない。イエスは女の執拗さを見て言葉を変え、「子供たちのパンを取り上げて小犬にやるのはよくない」と言い切った。子供たちはユダヤ人を、小犬は異邦人を、パンは癒しの業を指している。それに対する女の行動は、後世に伝えられるほど見事なものであった。彼女は「その通りです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言い切る。イエスは女の信仰に感心し、彼女の娘はたちまち癒された。女の熱心な信仰がイエスを動かしたのである。マタイが福音書に、このカナンの女の記事を挿入したのは、ユダヤ人の信仰が決して異邦人より勝っていないことを、ユダヤ人に分からせ、それをもって彼らの優越感や選民意識を反省させようとしたからである。
−マタイ15:25-28「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき娘の病気はいやされた。」
・この話はマルコが原型と言われているが、そのマルコには「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」との言葉はない。イエスの真意は何だったのだろうか。
‐マルコ7:25-27「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない』」。

2.大勢の病人をいやす

・イエス一行はティルスとシドンの旅の後、ガリラヤ湖の岸辺、デカポリス地方へ戻り、イエスが山に登り休んでおられると、大勢の人々が癒しを求めて、病人をイエスの元へ連れて来た。そして大勢の病人はイエスに癒された。イエスの癒しの業に驚いた人々はイスラエルの神を賛美した。「イスラエルの神を賛美した」という表現は群衆がユダヤ人ではなく、イエスに癒された異邦人であったことを、ここでマタイは物語っているのである。この箇所はマルコにはない。
−マタイ15:29−31「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他大勢の病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」

3.四千人に食べ物を与える

・イエスはカナンの女の娘の癒し、大勢の異邦人の癒し、さらにここでは四千人の群衆への給食までされた。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。群衆は三日もイエスと一緒にいたのだから、腹を空かせたまま返しては可哀そうだと。彼らがこのまま帰っても、何も食べられぬほど貧しいことが、イエスには分かっていたのである。
‐マタイ15:32「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない』」。
・イエスの手元にはパンが七つと魚が少ししか手元になかった。またこんな人里離れた所で大勢の群衆のための食糧が手に入る見込みもなかった。しかし、イエスは七つのパンと魚を手に持ち、感謝してパンを裂いた。神にすべてを委ねたそのとき奇跡は起こった。私たちはこんな少ししかないと嘆くことはあっても、「少しでもある」ことに感謝できない。初めから足りないと分かったら、大勢に配る勇気を持てないだろう。忘れてはいけないのは、イエスが、その少ししかないパンを感謝して裂くと、神の恵みが働き、四千人が満腹した後、残りのパン屑が七つの籠いっぱいになった。
−マタイ15:33−39「弟子たちは言った。『この人里離れた所で、これだけ大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。』イエスが『パンは幾つあるか』と言われると、弟子たちは、『七つあります。それに、小さい魚が少しばかり』と答えた。そこでイエスは地面に座るよう群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパン屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方へ行かれた。」
・直前の14章13節以下に5千人の給食の話があった。ここでは4千人の給食だ。同じような出来事が二度あったのだろうか。マタイはそう理解して二度記し、ルカは同じ話の繰り返しとして、これを省略している。しかし16章の弟子たちとの会話では、イエスは二度の給食に言及している。
‐マタイ16:8-11「イエスはそれに気づいて言われた。『信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい』」。
・5千人の給食で余ったパンくずは籠12個、4千人の給食では籠7個、いずれも聖なる数である(12部族、12使徒、7つの燭台等)。この話は何かを象徴しているのだろうか。
‐マルコ 8:19-21「『私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは、『十二です』と言った。『七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』『七つです』と言うと、イエスは、『まだ悟らないのか」と言われた』」。
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