すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マタイ福音書(二巡目)  >  2014年5月28日祈祷会(マタイによる福音書13:31−58、天の国の譬え)
1.「からし種」と「パン種」の譬え

・からし種は小さい。小さな米粒よりももっと小さい。イエスがからし種を譬えに用いたのは、その小さな種の大きな成長力を譬えにしたかったのである。からし種は大きな木になる。イスラエル旅行の途次、ガイドの説明で観光バスの窓から見たからしの木は、4メ−トルくらいあった。地元ガイドの説明によると、鳥はその黒い実を好んで群れをなすそうである。イエスの譬えはけっして誇張ではない。天の国はそのように大きく成長する。
-マタイ17:20「イエスは言われた『はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここから、あそこに移れと命じてもその通りになる。あなたがたにできないことは何もない』」。
-マタイ13:31-32「イエスは別の譬えを持ち出して、彼らに言われた。『天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』」
・イエスの時代、イスラエルでは自家用のパンは主婦が焼いた。三サトンのパン粉はおよそ39リットルだから、かなりな大人数の家族のパンである。パンを焼いたら、次のパンを焼くため少量のパンの塊をパン種として残しておく。残されたパン種はその間に発酵し、その手順をくり返して、パン種は引き継がれる。しかし、元々発酵は腐敗と考えられ、パン種は悪いものとされていたから、過ぎ越しの祭りの前には、家にある限りのパン種は、すべて焼き捨てられていた。イエスは腐敗と悪の象徴とされたパン種を、天国の譬えに用い、良いものの譬えに変えてしまった。パン種を入れないパンは固く、パン種を入れたパンの柔らかな舌触りには及ばない。パン種が粉に変化を与えるように、天の国は人生に活力と希望を与えるのである。
−マタイ13:33「また、別の譬えをお話しになった。『天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜるとやがて全体が膨れる。』」

2.譬えを用いて語る

・イエスは聞き手の理解能力に応じて、自由自在に話題を変えて語った。譬えを用いて語る場合、その譬えの内容や難易度まで聞き手に合せイエスは語った。
−マタイ13:34−35「イエスはこれらのことをみな、譬えを用いて群衆に語られ、譬えを用いないでは何も語られなかった。それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『私は口を開いて譬えを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる(詩篇78:2)。』」

3.「毒麦の譬え」の説明

・毒麦は単子葉植物イネ科ドクムギ属の一年生植物で、育つと高さは30−80cmになる。最初は麦と判別しにくく、根は麦とからみあう。麦の根は弱く、逆に毒麦の根は強いので、抜くと麦まで抜いてしまうことになる。だから収穫の時まで麦も毒麦もそのままにしておくのが、当時の農家の慣わしであった。良い種を蒔くのは人の子、畑は世界、良い種は御国の子らである。毒麦は悪い者の子ら、毒麦を蒔く敵は悪魔、刈り入れは世の終わり、刈るのは天使たちである。イエスは善悪を裁く最後の審判の時が来ると警告している。それを受けてマタイは、「教会の中に悪(毒麦)があっても裁かず、神の裁きに委ねよ」と伝えた。
−マタイ13:36−43「それから、イエスは群衆を残して家にお入りになった。すると弟子たちがそばに寄って来て、『畑の毒麦の譬えを説明してください』と言った。イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりではそうなるのだ。人は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。』」

4.「天の国」の譬え

・イエスの時代、不安定な社会情勢から、財産を保全するのは至難であった。ありとあらゆる財産の隠し場所と方法が試みられ、その隠し場所の一つが畑であった。まさかこんな所にという意外性が狙いだった。しかし、難点があった。畑に宝を隠した持ち主が死ぬと、宝は畑の中で人知れず眠り続けることになった。そんな宝を見つけた者の喜びは筆舌に尽くし難かった。その喜びを、天国を見つけた者の喜びに譬えているのである。
-マタイ13:44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。
・天然の真珠は高価で得難く、この上なく貴重であった。真珠が財産としての価値が高かったのは、美的価値が金銭的価値を上回っていたからである。その真珠のような類まれな美しさが天国に譬えられるのである。
-マタイ13:45-46「また、天の国は次のように譬えられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。
・引き網を二艘の船の間に張り、魚を網の間に追いこんで岸に引き上げるのが地引き網である。地引き網漁は網を引き揚げてからのことが譬えになっている。漁師は値段の高い魚と安い魚を選り分け、売りものにならない魚は捨てる。判別する漁師の目は厳しい。神は漁師のように人を裁く、人は最後の審判の時に、「この世で何をしたかで裁かれる」との譬えである。
−マタイ13:47−50「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになりと、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりもそうなる。天使たちが来て、正しい人の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

5.天の国のことを学んだ学者

・イエスを取り巻くユダヤ人は、次第にイエスを拒否する姿勢を露わにしてゆく。そんな中でイエスは神の御言葉を述べ続ける。成長し続けるイエス共同体の中核となる十二弟子を、イエスは期待をこめて「天の国のことを学んだ学者」と呼び、そのうえで、彼らを「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と評価している。「新しいもの」はイエスの教えで、古いものは「旧約聖書」、彼らはこの新しいものと、古いものを自在に取り出して、福音を説き明かせる。
−マタイ13:51−52「『あなたがたは、これらのことがみな分かったか。』弟子たちは、『分かりました』と言った。そこでイエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」

6.ナザレで受け入れられない

・イエスは故郷へ行かれた。勇気のいることである。神学校を出たての牧師が、一番説教し難い場所は、自分が子供の時いた教会である。そこには彼の未熟な幼い頃をよく知っていて、成人した彼を信用しない人々がいる。イエスも同じことを故郷ナザレで経験した。イエスは故郷の会堂で説教の機会を与えられたものの、イエスの子供時代を知り、イエスの父、母、兄弟を知る会衆は不信を露わにした。「預言者、里に容れられず」という諺の通りである。語ったことを聞いていないという点でこれは偏見である。人々はイエスにつまずき、イエスは彼らにつまずいたのである。
−マタイ13:53−58「イエスはこれらの譬えを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。』このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは『預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。』と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡はなさらなかった。」
プリンタ用画面
前
2014年5月21日祈祷会(マタイによる福音書13:1−30、種蒔きの喩え)
カテゴリートップ
マタイ福音書(二巡目)
次
2014年6月4日祈祷会(マタイによる福音書14:1−20、ヨハネの死と五千人の給食)