すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マタイ福音書(二巡目)  >  2014年5月7日祈祷会(マタイによる福音書12:1−32、安息日論争とベルゼブル論争)
1.安息日に麦の穂を摘む

・ファリサイ人は、イエスの宣教や奇跡の数々を、初めは苦々しく思う程度だったが、癒しや悪霊追放が評判になると、次第に苛立ち、イエスの行動すべてを目の敵にするようになってしまった。しかし、彼らがイエスの行動を否定する根拠がなかった。彼らはイエス一行の後を付け回し、粗探しを始めた。そして、彼らが目を付けたのが安息日問題だった。
・安息日に、麦の穂を摘んで食べるイエスの弟子たちを見たファリサイ人は、イエス一行が彼らの思う壺に嵌まったと思い込んだ。麦の穂を摘んで食べる行為は申命記の規定からは特に問題とはならない。しかし、安息日にはしてはいけない。それは安息日に禁止されていた「労働」に該当したからである。
−申命記23:25−26「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」
・パリサイ人は麦の穂を摘む行為を労働と決めつけ、イエスに論争を挑んだ。
−マタイ12:1−2「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ人はこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った」。
・当時の安息日禁止規定は複雑多岐であった。アボット・メラハ−(禁じられた仕事の条項)によれば、まず、刈り入れ、食事の支度、荷物の運搬など39の基本項目があり、それを基にさらに枝葉の規定を加え、合計1,521もの規定で成り、ほとんどがんじがらめに安息日の行動は縛られていたのである。
−出エジプト20:8−11「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事を、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留するすべての人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこのあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
・禁止規定に当てはめると、弟子たちのこの行為は、一つだけではなく、幾つもの安息日の規定を破ったことになった。穂を摘む行為は刈り入れになり、手で穂をもみ、もみ殻を取り除くのは脱穀になった。いずれも安息日の禁止規定であり、さらには安息日に禁じられている食事の支度をすることになった。なぜなら、安息日の食事はすべて前日に用意しておかねばならなかったからである。しかしイエスは反論される。
−マタイ12:3−8「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者も空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『私が求めるのは憐れみであって、生け贄ではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
・「人の子は安息日の主なのである」とは大胆な言葉だ。ファリサイ人に対しイエスは、言訳ではなく彼らの意表を突く回答をされる。イエスはサムエル上21:1−6を引用した。ダビデと従者は空腹になり、幕屋に入り祭司だけしか食べられないパンを食べた。聖別したパン(レビ24:5−8)は毎週新しくとり替えられ、古いパンは祭司だけが食べた。その聖なるパンをダビデと従者が食べたが咎められなかった。安息日の主が何故人の子なのか。それは「人間を飢えから救い、生かすことが、安息日の規則より優先する」からである。

2.手の萎えた人を癒す

・イエスが会堂に入ると、そこに片手の萎えた男がいた。その日は安息日であった。ファリサイ派の人々はイエスが安息日に癒しを行うかどうかを注視していた。彼らには片手の萎えた男のことなど、どうでもよかったのである。彼らは「安息日に人を癒しても差し支えないか」とイエスに質問した。それはイエスを陥れるための罠であった。イエスは彼らの問いに、下心があることを見抜き、直接には答えず、「穴に落ちた羊の例を用いて、安息日に善いことをするのが正しいなら、善いことしないのは誤りである」と指摘した。聖なる日であろうとも、困っている人を救わないことはありえないというのがイエスの結論であった。話し終わるとイエスは手の萎えた男を癒した。言い分を退けられたファリサイ人たちはイエスを殺害する計画を練り始めた。
−マタイ12;9−14「イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた。そこで、イエスは言われた。『あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊より大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。』そしてその人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元通り良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」

3.神が選んだ僕

・イエスは癒しを続けられた。マタイはそのイエスの行為を、イザヤ42章「僕の歌」を通して、描いている。イエスは神が選ばれた僕メシアである。メシアは神の霊を授けられ、世に遣わされた救世主である。メシアは虐げる者から弱者を救い、その友となり、福音を伝える。メシアは大路で声高に叫ばず、争わず、正義と平和をもたらす。ゆえに異邦人も彼の名に望みかけるのである。
−マタイ12:15−21「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、私の選んだ僕。私の心に適った、愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた芦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。』」

4.ベルゼブル論争

・イエスが悪霊に取り付かれた人を癒した時、群衆は感嘆したが、ファリサイ派の人々は「イエスはベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出している」と批判した。ベルゼブルは列王記下1:1−8にヱクロンの神バアル・ゼブブの名で既出している。ベルゼブルはそのギリシャ読みであり、悪魔の別名である。
−マタイ12:22−27「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスが癒されると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか。』と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。』と言った。イエスは彼らの考えを見抜いて言われた。『どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えばその国は成り立たない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、その国が成り立って行くだろうか。私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから彼ら自身があなたたちを裁く者となる。』」
・イエスはファリサイ人の誹謗に対し、サタン同志が争うなら内輪もめでその国は滅びると論破し、そのうえで、そう言うあなたがたの悪霊払いこそ、何の力でしているのかと問われる。当時はファリサイ人も悪霊払いを行っていた。イエスが神の力で悪霊を追放した時、神の国は来ているのである。イエスは強盗の例えでこの教えを繰り返し、そのうえで、イエスに味方するか、敵対するか、中立はありえないと、信仰の決断を迫っている。
−マタイ12:28−32「『しかし、私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、強い人を縛りあげなければ、どうして、その家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってからその家を略奪するものだ。私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも許されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。』」
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