すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マタイ福音書(二巡目)  >  2014年4月30日祈祷会「マタイによる福音書11:20−30、悔い改めない町を叱る」
1.悔い改めない町を叱る

・イエスはガリラヤ湖周辺の町々を訪れ、数多くの癒しと宣教の業を行い、民衆はイエスを歓迎した。しかし、民衆は癒されてしまえばやがて忘れ、宣教の業に感動しても一時的で、悔い改めなかった。感動は一過性であり、信仰を永続させる力とはならなかった。その心は移ろいやすく、流れる水や吹く風のごとく、とらえどころがなかったのである。イエスはバプテスマのヨハネのつまずきと為政者や民衆の不信仰を指摘し、ガリラヤ湖周辺の町々の人々の不信仰を批判した。ガリラヤ湖の北北西の町コラジン、ガリラヤ湖の北東岸の町ベトサイダ(ベトサイダは弟子のペトロ、アンデレ、フィリポの出身地であった)、ガリラヤ湖北西岸の町カファルナウム(カファルナウムはイエスの宣教活動の拠点であった)。これらの町々の人々はイエスの声を聴き、奇跡の業の数々を眼前にしながら、悔い改めなかったのである。
−マタイ11:20−24「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジンお前は不幸だ。ベトサイダお前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちより軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。』
・悔い改めとは、神の前に罪を悔い、心を改め、新しい生活を始めることである。イエスはガリラヤの町々の不信仰とツロとシドンの不信仰を比べ、「ツロとシドンの方の罪が軽い」と言い切る。ツロはフエニキャ人の町として経済的に繁栄したが、繁栄の裏には、高慢、腐敗と堕落、偶像崇拝の蔓延があった(イザヤ23;1−18、エゼキエル26−28章)。シドンもまた、ツロに匹敵する悪徳の町として指摘されている(ゼカリヤ9:2)。イエスがこれらの背信の町々を悪しき例として取りあげたのは、コラジンやベッサイダの人々の頑なな不信仰を悔い改めさせるためであった。
・「裁きの日には、異邦人ツロとシドンの方が彼らの町より厳しい裁きを受ける」と、人々は思っていた。しかし、それは彼らの勝手な思いこみに過ぎなかった。イエスは彼らの思いこみを覆し、逆に彼らの不信仰を明らかにした。イエスは彼らの慢心を反省させるため、厳しく戒めたのである。「裁きの日」は神がすべての被造物を、その信仰生活によって裁かれるのである。イエスは彼らに厳粛な「裁きの日」を教え、真の悔い改めを迫ったのである。
-競灰螢鵐5:10「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」。
・イエスはコラジン、ベトサイダに続き、カファルナウムの不信仰を指摘している。カファルナウムは、地中海とダマスコを結ぶ通商貿易の中継点として栄えていた。そのため、「天に上げられる」と勘違いしていたのだろう。イエスはそのカファルナウムの自信過剰に冷水を浴びせたのである。カファルナウムと比べられたソドムは、イスラエル国家形成以前のアブラハム時代の町であった。ソドムは淫乱と好色ゆえに、神により滅ぼされた(創世記19章)。悪徳の町として後世に伝わるソドムより、カファルナウムは悪い町だとイエスは厳しく批判したのである。

2.私のもとに来なさい

・イエスの厳しい批判はいったん終わり、11章25節からイエスの祈りが始まる。イエスは父なる神に祈るが、その祈りは、御国の恵みを受けた幼子の祈りであり、幼子はイエス自身である。イエスは父なる神と自らの関係に立ち戻り、改めて「天地の主である父よ」と呼びかける。イエスはここで「すべてのことは私に任されています」と自らの使命を再確認する。
−マタイ11;25−27「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や、賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』」。
・天地の主である父とイエスとの間には、世の知恵者や賢者でも量り知れぬ秘義があるとイエスは言う。その秘義は、神自身がイエスを通して語らなければ、誰もその秘義を知る術はない。神が主権を持って最初に人に語りかけて下さらなければ、人は御国の奥義である真理に到達することはできない。そして、働きかけを受けた人が、神の示された道を選ぶのでなければ、神の国の奥義がその人に実現することはない。
・祈りの後半では、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい」と人々を招かれている。イエスは、正統派ユダヤ人である律法学者、ファリサイ派を、「彼らは、背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすため、指一本貸そうとしない。」(マタイ23:4)と批判している。彼らの宗教は多数の戒律と規定ずくめで、人々は疲れるだけであった。それに対してイエスは、「私のもとに来れば休ませてあげよう。私はただ厳しいだけではない、私の軛は負いやすい」と、弟子たちを招いているのである。
−マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。』」
・軛は牛や馬の肩にかけて車を引かせるための棒であることから、軛を負うことは信従を意味している。人生の現実は不条理に満ちており、人はその不条理に負けて、挫折する。しかし、そのどうにもならない不条理に、あえて身を投じ、目的に向かうことも、信仰があれば可能ではないだろうか。どうにもならないように見えるものの中に、イエスを信じてすべてを任せ、身を投じることこそが、信仰の極意ではないだろうか。イエスの弟子たちはそのようにして信従してきたのである。
-ヨハネ6:66-69「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています』」。
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