すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.イエスの仲間であると言い表すこと

・イエスは、「私を仲間であると、人々の前で言い表す者を、私も、天の父に私の仲間であると言い表す。しかし、私を知らないと、人々の前で言う者は、私も天の父に、そんな者は知らないと言うであろう」と述べている。イエスの仲間であると公に言い表すことは信仰告白である。イエスは弟子たちに信仰告白を促しているのである。そして、イエスの仲介によって、その信仰告白は神に聞き届けられると約束しているのである。
−マタイ10:32−33「だから、だれでも人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表す。しかし、人々の前で私を知らないと言う者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う。」
・しかし、公に信仰告白することは、ある時代には迫害をうけることを覚悟しなければならない。迫害を恐れたペトロは臆病になり、イエスの仲間であることを三度否定する。迫害を恐れ信仰告白の時を失ったペトロは、自分のふがいなさを嘆くのだった。
−マルコ14:66−72「ペトロが(大祭司邸の)下の仲庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火に当たっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。』しかし、ペトロは打ち消して、『あなたが何のことを言っているのか、私には分からないし、見当もつかない。』と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、『子の人は、あの人たちの仲間です』とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。『確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。』すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない。』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。」

2.平和でなく剣を

・イエスは弟子たちに信仰の選択を迫る。イエスが宣教を始めたことにより、ユダヤ人の信仰生活にそれまでに無かった変化が生じた。それは旧来のユダヤ教を信じる人々と、新しいイエスの教えを信じる人々の分裂であった。分裂は家族間にも及び、それぞれの信仰対象が異なることになった。親がユダヤ教であっても、子はイエスの教えに従う場合も起こる。それはまさに信仰による、肉親間の葛藤を生んだのである。信仰上の葛藤が起こるのは親子だけに止まらなかった。夫婦や兄弟姉妹間でも同様信仰の葛藤が生じたのである。
−マタイ10:34−39「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに、こうして自分の家族が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしの従わない者は私にふさわしくない。自分に命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
・イエスは平和をもたらすために、地上に来たのであるが、こと信仰に関しては妥協なく、厳しい選択を迫った。「私は平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。私より家族を愛する者はわたしにふさわしくない」というイエスの言葉に妥協はないのである。自分の十字架を担いイエスに従うのは、殉教をも恐れるなという厳しさがある。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者はかえって真の命を得る。その命は肉体の生命ではなく、神から与えられる永遠の生命である。神にすべてを委ねよとイエスは、弟子達を励ましている。イエスは肉の親子兄弟と、信仰の親子兄弟の違いを、自らの母と兄弟を前に人々に示すのであった。
−マルコ3:31−35「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人がイエスの周りに座っていた。『ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを探しておられます』と知らされると、イエスは『私の母兄弟とはだれか』と答えて、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい、ここに私の母兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」

3.受け入れる人の報い

・宣教へ向かう弟子達への、イエスの励ましの言葉である、弟子たちの宣教を受け入れる人々は、イエスを受け入れ、さらに神を受け入れることになるのである。これは今日の宣教の基本でもある。イエスは弟子たちを受け入れる人々への報いを約束している。喉が渇いた弟子たちにたった一杯の水を飲ませる。そんな小さな行いであっても、神は報いてくださるとイエスは約束している。
−マタイ10:40−42「あなたがたを受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも、飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
・イエスは別の時にイエスを受け入れる人々への報いを、譬えを用いて語っている。
−マタイ25;35−40「『お前たちは、私が飢えているときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。』すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか、』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。
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