すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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マタイ9章後半のキー・ワードは、「あなたの信仰があなたを救った」である。信じようにも、自我が邪魔して、素直に信じられないのが人の常である。人は自我を捨てて、自らを委ねることができたとき、真の信仰を持てるのである。
−マルコ8:34−35「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」

1.指導者の娘とイエスの服に触れる女

・この出来事の並行記事がマルコ、ルカ両福音書にある。マタイは、娘のいやしを必死に願うこの男性を、一指導者としか記していないが、マルコとルカは、指導者の名はヤイロで会堂長であると記し、さらにこの奇跡のすべてを詳述している。ヤイロはユダヤ教の会堂(シナゴ−グ)の会堂長である。会堂長は会堂で行われる礼拝の運営と監督にあたる役職である。会堂長は長老の中から選出されるから、人望だけでなく政治力もある地域の実力者であった。その会堂長が娘の不幸で、心を砕かれ弱り果て、イエスの前にひれ伏したのである、彼がイエスを信じすべてを委ねる決心をしたとき、娘は救われたのである。
−マタイ9:18−19、23―26「イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来てひれ伏して言った。『わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。』そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった・・・イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者や騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。『あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。」
・物語の中に長血を患う女の記事が挿入される。長血と記された女性の病を、現代の医師は子宮筋腫か、子宮内膜症のどちらかであると診断している。子宮内膜症の場合、現代医学の薬物療法でも根治は難しいと言われている。女性が患っていた当時の医術では、なおさら、根治は不可能であり、十二年間の闘病で彼女が全財産を使い果たしたのも、やむをえないことであった(ルカ8:43)。彼女が全財産を使い果たしたということは、彼女の全人生を使い果たしたということも同然であった。彼女の不幸に、さらに追討ちをかけたのが、「不浄の規定」(レビ15:27)であった。その彼女を絶望のドン底から救ったのは、彼女の信仰であった。
―マタイ9:20-22「すると、そこへ十二年間も出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき彼女は治った。

2.二人の盲人をいやす

・イエスがそこを出られると、二人の盲人がイエスを「ダビデの子」と呼んで引き止めた。彼らがイエスをそう呼ぶのは、当時の人々がイエスを、「ダビデの子、メシア」と信じていたからである。当時から遡ること、数世紀にわたり、彼らユダヤ人は約束された救い主はダビデの血統から現れると信じ待望していた。そして、その救い主がユダヤの指導者となり、征服者を追い出し、国の栄誉を回復し、彼らに自由を与えると信じていた。盲人がイエスを「ダビデの子」と呼んだのはそういう時代背景があったからである。
・彼ら盲人はダビデの子としての、イエスの本質と使命には、まったく気付いていないのである。彼らが求めたのはただイエスのいやしだけだった。イエスは盲人たちに「わたしにできると信じるのか」と、ただ一言の質問をされた。盲人たちが、いやされるためには、どうしても欠かせない条件、それはイエスを信じる信仰であった。イエスは彼らの目に触れ「あなたがたの信じているとおりのなるように」と言われた。イエスの言葉にはいやしの力があり、この一言で盲人たちの目は開かれた。イエスはいやされたことを、他言せぬよう厳重に口止めしたのは、イエスをいやしだけ行うメシアと誤解させぬためであった。
−マタイ9:27−31「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ。わたしたちを憐れんでください。』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は『はい、主よ』と言った。そこでイエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出るとその地方一帯にイエスのことを言い広めた」。

3.口の利けない人をいやす

・9:32以下にあるいやしの記事は簡潔である。悪霊につかれたこの人物がどのような経過でイエスのもとへ連れてこられたのか、連れて来た人がイエスにどのようにいやしを願ったのか、イエスがどのようにして悪霊を追い出したのか、その詳細は記されていない。この記事はそれらを省き、その代わりに、奇跡を目撃した群衆と、ファリサイ派の人々の反応で記事を結んでいる。
―マタイ9:32−34「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れて来られた。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことが今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。』と言った。」
・この記事の重点は群衆の反応とファリサイ派の反応なのであった。群衆はイエスの奇跡にただ驚嘆し、ファリサイ派は、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると非難した。このファリサイ派の非難が、後の「ベルゼブル論争」に繋がるのである。
−マタイ12:22−26「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければこの者は悪霊を追い出せはしない』と言った。イエスは彼らの考えを見抜いて言われた。『どんな国でも内輪で争えば荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも内輪で争えば成り立っていかない。サタンがサタンを追い出せばそれは内輪もめだ。そんな風では、どうしてその国が成り立って行くだろうか。』」

4.群衆に同情する

・マタイ福音書でこれまで学んできたことが、ここでまとめられ、反芻されている。飼い主のない羊のような、哀れな群衆を救う為政者も、宗教的指導者もいないのを見て、イエスは彼らを憐れんだのである。当時のユダヤは信仰がなく、民を思わないヘロデに支配されており、それに加えてパリサイ的ユダヤ教指導者が、民に律法の重荷を背負わせ、よけいに民衆を哀れにしていた。この群衆を見る目にイエスの特質がある。ファリサイ派はこの群衆を、「焼き捨てられるもみ殻のように無価値」と見ていたが、イエスは「刈り入れて蓄えねばならぬ収穫」と見たのである。ファリサイ派は哀れな群衆を放置したが、イエスは彼らを救おうとした。働き人がいなければ収穫はできないから、イエスは「収穫は多いが働き手は少ない」と言った。救わねばならぬユダヤの民衆を目の前にして、福音を伝え導く者が少ないことをイエスは憂え、伝道者が与えられるよう祈りなさいと弟子たちに命じた。
−マタイ9:35−38「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで弟子たちに言われた。『収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」
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