すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.弟子の覚悟

・一人の律法学者がイエスの言行に感動し、弟子になりたいと申し出た。聖書に登場する律法学者の多くは、イエスの教えと行動に異を唱える者ばかりのようにみえる。その中で、このようにイエスを敬い慕い寄り、服従を示すのは希である。一人の人格が他の人格に影響を与える時、思いがけない結果を生む。この記事はイエスが律法学者に強い感化を与えたことを物語っている。
−マタイ8:18−20「イエスは自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向う岸に行くよう命じられた。そのときある律法学者が近づいて、『先生、あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります。』と言った。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』
・だがイエスに従うことは容易いことではない。この律法学者がイエスに従う申し出をした時、イエスは「人の子には枕する所もない」と言われた。イエスは、「私に従うならどんな犠牲もいとわない決心をしなさい。親の葬りができなくなる場合もある」と、弟子の覚悟を促している。
−マタイ8:21-22「ほかに、弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。』」
・「両親を敬え」と律法(十戒)が求める世界で、「親の葬儀に行くな」と戒めるのは大胆な発言だ。イエスが求めたのは、一時の感激から従う決心をすることではない。一時の感激は一瞬燃えて、燃え尽きる炎のようにはかないものである。イエスの求めた弟子の覚悟は厳しいものであった。
−ルカ14:26−27「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来るのでなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。」

2.嵐を静める

・ガリラヤ湖は嵐の起こりやすい地形にある。上流のヨルダン渓谷から落ちる水を集めて出来たガリラヤ湖は、海抜マイナス200メ−トルの盆地の底にあり、水面は南北21キロ、東西の広いところでも、わずか13キロと小ぶりで、言うなれば窪地の水たまりのようでもある。ガリラヤ湖はふだんはおとなしいが、いったん風が吹くと西側の渓谷が狭く、吹いた風が抜けにくく、行き場をなくした風が圧縮され、湖面をたたく嵐となる。ガリラヤ湖はにわかに嵐が起こり、小舟などわけなく転覆させてしまう危険な湖なのである。イエス一行の乗った船もその嵐に出会った。
−マタイ8:23−27「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐がおこり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けてください。おぼれそうです。』と言った。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者達よ。』そして、起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか。』と言った。」
・イエスは弟子たちに「ああ信仰の薄い者よ」と言われた。人の生涯を四季に見立てれば、暖かい太陽が照る春もあれば、炎天にあえぐ夏もあり、淋しく悲しい秋風が吹く時もあり、厳しく恐ろしい冬の風が吹く時もある。そして、時には、疑いの嵐が信仰の土台を揺るがす時もある。良い時もあれば、悪い時もあるのが人生である。何事が起ろうと、何を見ようと、すべて信仰の試練と心得えて、ひたすら神を信じ、神にすべてを委ねて生き抜けというのが、この嵐の教えなのである。

3.悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす

・悪霊払いも癒しの一つであった。ガラダの悪霊は他の悪霊と比べ特別凶暴であった。悪霊は複数で、二人の男に取り付いていた。男たちの言うことは、すべて男に憑依した悪霊の言葉であった。悪霊たちはすでにイエスが神の子であると知っており、したたかであった。イエスを挑発しイエスに勝ち、イエスを追い返し逃げ切ろうとしたのだが、イエスは彼らの策には乗せられなかった。男たちに憑依し続けられないと、観念した悪霊たちは、豚の中に自分たちを移すようイエスに要求した。
−マタイ8:28−34「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。『神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。』はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊どもはイエスに、『我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ』と願った。イエスが『行け』と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。」
・マルコとルカはガダラではなく、ゲラサと地名が異なる。悪霊たちは豚の中に移され、閉じ込められてしまい、結局滅ぼされてしまう。悪霊に憑依された男たちは、憑依した悪霊の策のまま、操られていたが解放された(マルコ5:15)。悪霊は男たちの心の隙間に潜り込み住みついていた。「悪霊はいるのだろうか」、パウロは心の隙を作るな、サタン(悪霊)に負けないために、と警告している。
−ロ−マ16:17−20「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和や躓きをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいによって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、私はあなたがたのことを喜んでいます。なお、そのうえ、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」。

*参考資料
ドストエフスキーは、組織の結束を図るため転向者を殺害した「ネチャーエフ事件」を素材に、小説「悪霊」を書いた。ルカ8:32-36(マルコ5:32-39、マタイ8:28-34の並行箇所)が小説の冒頭に出てくる。悪霊にとりつかれて湖に飛びこみ溺死したという豚の群さながらに、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織した青年たちは、革命を企てながら自らを滅ぼして行く。人民寺院のジム・ジョーンズは信徒数百名を連れて集団自殺し、オウム真理教・麻原彰晃は組織を防衛するために無差別大量殺人を行った。人をより効率的に殺すためのクラスター爆弾や劣化ウラン弾を開発し用いる人も、また悪霊にとりつかれている。マルコやマタイの描く世界、ドストエフスキーの小説の世界は現在の物語だ。
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