すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マタイ福音書(二巡目)  >  2014年2月19日祈祷会(マタイによる福音書7:1−14、人を裁くな)
1.人を裁くな

・イエスは司法裁判を批判しているのではない。人の独善的裁きを戒めているのである。イエスの戒めを聞いて、初めて自分の身勝手に気づく人がどこにでもいるはずである。人は他の存在をそのまま受け入れられず、上司や先輩、友人や同僚、父母兄弟、夫や妻、子供はおろか誰でも裁いてしまうのである。裁けば裁き返される。思いやりのない、冷たい裁きに曝された者は、耐えかねて裁いた者を裁き返すのである。
−マタイ7:1-4「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」。
・イエスは独善的裁きをする者を偽善者と呼んでいる。自分を過ちのない者としているからである。過ちはだれにもある。人は相手を裁く前に、自分が同じ過ちをしていないか、自己吟味すべきである。そのうえで、同じ過ちを犯しやすい、不完全な者として、心からの助言をすべきである。頭ごなしの独善的裁きは相手の反感をあおり、自分が量ったその秤で、量り返される。
−マタイ7:5−6「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
・イエスが言う兄弟とは神を父と崇める信仰の仲間、主にある兄弟姉妹のことである。信仰の共同体は外部へはとにかく、内部においてはわずかの違いにも敏感に反応しやすく、互いに裁きやすい。犬や豚は理解能力を持たない者を暗示し、真珠は価値あるものを暗示している。どんなに神聖で価値ある教えであっても、理解能力のない者には教えるだけ無駄であるというのが本意である。

2.求めなさい

・イエスは積極的な信仰を奨励している。「求め」「探し」「門をたたく」ことは、積極的信仰の基本である。常に祈り求めること、常に聖書を読み聖書から信仰の指針を探り当てること、門を叩き続ければ、開いた門の先に新生の道が開けるのである。イエスは神を父、人をその子と呼んでいる。そして悪い子であっても、求める子には天の父は良い物をくださると保証し、希望を与えたうえで、人からしてもらいたいことがあれば、まずそのように人にもせよと教え、隣人愛を奨励している、神の愛の実践である。
−マタイ7:7−12「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
・ルカは求める者に神は「聖霊をくださる」とする。同じ伝承も聞き方によって意味が変わってくる。
−ルカ11:13「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

3.狭い門から入れ

・狭い門は入り難く、狭い道は通り難い。イエスは人の進む先に二つの門と二つの道があることを示し、選択を迫っている。狭い門と狭い道は前途の困難と労苦を意味し、広い門と道はその労苦が無いことを意味している。しかし、狭い門と狭い道を通った者は命を得、広い門と広い道を通った者は滅びに至るのである。どちらを選んで進むか、そのとき人は嫌応なく岐路に立たされるのである。
−マタイ7:13−14「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それ見出す者は少ない。」
・イエス・キリストを信じ受け入れ、従う決心をした者は、狭き門と狭き道を選んだ者である。イエス・キリストがゴルゴタの丘で十字架に架けられた十年後、キリスト教会の迫害者であったサウロは回心して、伝道者パウロとなった。パウロはさらに十年後、「苦難を誇りにする」と書いた手紙をロ−マの教会に送っている。パウロは狭き門から入り、狭き道を歩むことを選んだのである。彼は狭き門と狭き道が命に至る道と信じ従ったのである。
−ロ−マの信徒への手紙5:1−5「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰のよって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりではなく苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
プリンタ用画面
前
2014年2月12日祈祷会(マタイによる福音書6:19−34、天に冨を積め)
カテゴリートップ
マタイ福音書(二巡目)
次
2014年2月26日祈祷会(マタイによる福音書7:15−29、家と土台)