すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マタイ福音書(二巡目)  >  2014年2月12日祈祷会(マタイによる福音書6:19−34、天に冨を積め)
1.天に宝を積め

・イエスがここで取り上げたげた問題は、二千年以上も前のことなのに、そのまま現代人にもあてはまる問題である。その理由として考えられるのは、人間の本質は昔も今も変わりがないということである。「天に富を積みなさい」、「体のともし火は目」、「神と富」、「思い悩むな」は、それぞれ現代人にも共通する心の問題なのである。
・イエスは地上の冨と、天の富を対比している。地上の富は高価な衣類や貴金属で、それらを地上の蔵にしまっておくと、虫がつき、錆び、盗人に奪われる。天に積んだ富には虫もつかず、錆びず、盗まれない。ただし、イエスが天に積めと命じているのは物質の富ではない。信仰に基づく愛の業である。イエスはまったく性質の異なるものを、富と呼び対比している。天の富は信仰の業、地の富は物である。一方は滅びやすく、もう一方は不滅である。あなたの冨は天の富、地の富どちらだろうか。そして、あなたの心は天の富にあるのだろうか。地の富にあるのだろうか。あなたの富のある所にあなたの心もあるのである。
−マタイ6:19−21「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
・イエスは教えの多くを「喩え」で語られる。教えの具象化が「喩え」である。具象化により、教えが聞く者の心に生き生きと働きかけるのである。ルカ福音書の「愚かな金持ちの喩え」は天に積む富の教えの具象化である。
−ルカ12:13−21「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」
−ルカ12:16−21「それから、イエスは喩えを話された。『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしょう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがて言った。「こうしょう。蔵を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう言ってやるのだ。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめと。」しかし、神は「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれの物になるのか。」と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊にならない者はこのようになるのだ。』」

2.体のともし火は目

・目は光が体に入る窓である。窓ガラスが曇っていなければ、光は家いっぱいに差し込み、家の隅々まで明るくなる。窓ガラスが歪んだり、汚れていたり、曇っていたりすると光は遮られ、光は歪み、弱められ、家の中は暗くなる。目は心の窓でもある。目が曇っていたり、汚れていたりすると全身が暗くなる。
−マタイ6:22−23「からだのともし火は目である。目が澄んでいれば全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中の光が消えれば、その暗さはどれほどであろうか。」
・ルカ福音書に並行記事がある。ルカは自分の目が正しく見えているか、吟味せよと教えている。人は愚かな考えにとらわれた時、歪めてものを見てしまう。偏見、嫉妬、欺瞞にとらわれた目は事象を歪めて見てしまう。歪んだ目には正しいものも歪んで見える。人はものごとを正しく見、正しい判断をしなければならない。歪んだ目でものを見ているようでは正しい判断はできない。自分の目が正しく見えているか、吟味しなければならない。
−ルカ11:33−34「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

3.神と富

・現代人には6:24の喩えの意味が分からないかもしれない。昼間と夜間、二つの勤め先を持ち、二人の主人を持つ人など、今どき珍しくないからである。これはイエスの時代の喩えである。イエスの時代に、この教えを聞いた人は強烈な印象をうけるはずである。なぜなら、当時の奴隷は彼らの主人の持ち物だったからである。奴隷は同時に二人の主人に仕えることなど絶対できなかった。イエスは当時の奴隷の主従関係を喩えに用いているのである。神と富に仕えるのは心身の置きどころの問題であると、この喩えは語っている。この喩えが教えているのは、信仰を持つ者が同時に、物質主義者、快楽主義者、拝金主義者などではあり得ないということである。
−マタイ6:24「だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方をでは愛するか。一方に親しんで他方を軽んじるか。どちらかである。あなたがたは神と冨に仕えることはできない。」

4.思い悩むな

・「思い悩むな」という教えは、思慮なく、計画性なく、責任を負わない者であれということではない。思い悩みから解放されるには、神が人を造られたのだから人に必要なものは与えられるとまず信じることである。野の鳥や花は思い悩む者の手本である。彼らをよく見て彼らから学びなさいとイエスは言われている。鳥には思いいわずらいがない。鳥は畑に種を蒔かず刈り入れもしない、取り入れた作物を蔵に入れることもしない。鳥は未来を心配することもなければ、未来のために金銀を蓄えることもなく、将来の計画を立てる必要もない。鳥は神に生かされるままに生きているのである。
・野の花も神に生かされるままに生きている。パレスチナの丘に一日だけ咲き、翌日かまどで燃やされる赤いけしやアネモネでさえ、豪華な衣裳で装ったソロモン王より美しいのは、父なる神が彼らを装ってくださるからである。あなたがたは何を食べようか、飲もうかと取り越し苦労をしないほうがよい。あなたがたは鳥や花より勝る者ではないか、そのあなたがたを神が養われないわけがないではないか。
−マタイ6:25−30「だから、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命を延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていまかった。今日は生えていて明日炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」
・神を信じて、明日のことを心配せず、今日を精一杯生きなさい。そして、その日の思い悩みはその日だけにしなさい。思い悩みはその日一日だけでも苦しいのだから、翌日まで持ち越さないようにしなさいとイエスは教えているのである。
−マタイ6:31−34「『だから何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
・思いわずらいからの解放される考え方が二つある。一つは創り主なる神の存在を信じることである。イエスは神の創られた世界をよく見なさいと教え、野の鳥や野の花の例を示されている。彼らは神に生かされるままに生きているではないか。あなたたちも神に自らの生を委ねて生きればよい、何も心配することはないではない。イエスは言われている。もう一つは、33節で述べられている「だから、神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられる」という神の約束である。いずれにしても、思いわずらいから解放されるには、神を全幅的に信じ、神に思いわずらいを委ねることが先決なのである。
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