すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.腹を立ててはならない

・人の罪は心の思いから生じる。良き思いは良き行いとなり、悪しき思いは悪しき行いとなって表れる。人の行いはそれぞれの思いに左右される。その人の思いはその人を表す。人が悪しき思いを隠そうとして、表面だけ取り繕えば偽善となり、それもまた悪しき行いである。偽善はいつか露わになる。イエスはそのような人の心の負の働きを戒めている。
−マタイ5:21−22a「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける。」
・イエスは十戒の第六戒「殺してはならない」を示した後、兄弟に腹を立てる者は裁き受ける」と警告している。腹を立てることが動機となり、怒りが燃えあがり、人を殺人に駆り立てるとしたら、腹を立てることは殺人の引き金になりうるのである。だとすると、「殺すな」の戒めの後、いきなり「腹を立てるな」の教えがあったとしても、論理の飛躍ではなく、むしろ腹を立てることが、殺人の動機になるという警告になっているのである。カインは自分の捧げものが神に受け入れられないのに、弟アベルの捧げものが神に受け入れられたことに腹を立て弟を殺してしまう。その報いでカインは裁かれ、カインの土地は呪われ、作物は実を結ばなくなってしまう。(創世紀15:1−15)。
・イエスは兄弟に「ばか」と言う者は最高法院に渡され、「愚か者」と言うものは火の地獄に投げ入れられると、それぞれ処罰の対象を振り分けている。イエスの時代の最高法院はエルサレムにあって、議長は大祭司が努め、祭司、長老、律法学者ら70名で構成される、現代の最高裁判所のような存在で、主として国家反逆罪のような重罪を裁いていた。だからいくらなんでも、兄弟に「ばか」と言っただけで国事犯並みに、最高法院で裁かれるとは考えられない。「愚か者」と言った者が火の地獄に投げ込まれるのも刑罰が重すぎる。
−マタイ5:22b−24「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたがたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」
・しかし、これは一方的な判断で、怒りの奴隷となる者、高慢になり人を軽蔑する者、人の信用を傷つける者は殺人の罪を犯さないまでも、その行いで人の存在を傷つけ、殺人に等しい重い罪を犯していると考えることもできるのである。イエスはまずその言葉を改めよと戒めているのである。祭壇に供え物をしようとするとき、自分の悪しき行いに気付いたら、まず兄弟に詫びて仲直りしなければならないのである。神への供え物は、悔い改めた者が神へ捧げる、悔い改めのしるしであるから、贖罪の前に、人の間の不和を解消しなければ、供え物は神に受け入れられることはないのである。
−マタイ5:25−26「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるに違いない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
・イエスは和解の大切さと、和解の機会を逃さないことを教えている。そして、争いやすく和解の機会を逃す者は深刻な事態を引き起こすと警告しているのである。生涯を何の争いもなく過ごせる者は幸せだが、たとえ、自分自身が問題を起こさなくても、身内が起こしたり、所属している組織の争いに巻き込まれたりするかもしれない。そうなれば嫌でも和解の努力をしなければならなくなるのである。どんな大きな争いでも、最後に行き着かねはならなのは、和解の岸辺である。イエスの教えているのは訴える立場にある者ではなく、訴えられる立場にある者、赦しを求めねばならぬ、不利な立場にある者への警告なのである。忘れてはならないのは、相手に詫びを入れ、和解する機会を逃さないことである。和解の機会を逃した者は汽ァドランス、すなわち、汽妊淵螢ンの64分の1、貨幣の最小単位で、日本なら1円を返すまで牢から出られず、すべてを失うと、イエスは警告しているのである。

2.姦淫をしてはならない

・姦淫の罪もまた心の思いから生ずる罪である。イエスは行為だけではなく、心の思いも罪であると言っている。イエスは結婚を前提とした、性の営みまで罪とされてはいない。イエスが指摘されるのは、姦淫の目的を持って女性を見ることである。わざと情欲を刺激する者、情欲を刺激し興奮させる目的で出版される書籍、絵、広告、映画、テレビなど、同じように欲情を刺激する意図をもって作られる類である。それらはすべて姦淫の罪を作り出しているのである。イエスはこれらすべてを切り取って捨ててしまえと命じておられるのである。
−マタイ5:27−30「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら。えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても全身が地獄に落ちない方がましである。
・申命記24:1に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見だし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」と書いてある。記録によれば離婚の手続きはとても簡単で、二人の証人の前で離縁状を渡せば女性は即座に離縁されてしまった。当時の離婚は女性に極めて不利であり、女性の発言権などは無きに等しかった。イエスは無力な女性たちを庇い離縁を戒められたのであった。
−マタイ5:31−32「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女二姦淫の罪を犯させることになる。離縁された女を妻とする者も、姦淫の罪を犯すことになる。」

3.内在する罪

・イエスは腹を立てることと、目で姦淫を犯すことをあげ、人の内から生ずる罪を戒めた。パウロは自分に内在する罪に悩んだ。パウロの悩みには現代人と共通するものがある。
−ロ−マの信徒への手紙7:15−25「わたしは自分のしていることが分かりません。わたしは自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいない事を知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているのです。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い。わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしていることが分かります。わたしはなんと惨めな人間でしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょう。」
・パウロの悩みについて話しあってみたい。
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