すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.山上の祝福1

・イエスの宣教活動を記したマルコ福音書が、すでに世に出ていたが、マルコにはイエスの教えが少ないと感じたマタイは、マルコ福音書の枠組みを基本として、新たな資料を加えマタイ福音書を編集した。マタイは新たな福音書を編集するにあたり、イエスの説教を、五つの教え群にまとめた。それが山上の説教(5−7章)、弟子たちへの教え(10章)、種をまく者のたとえ(13章)、天の国で一番偉い者(18章)、終末の予告(24−25章)であった。マタイはマタイ福音書を編纂することにより、イエスの教えを詳しく伝えることで、イエスの真価を世に知らしめようとしたのであった。
・山上の説教はその内容の濃さと量の多さから、特定の場所で一度だけなされたとは考え難い。おそらく、何度かにわたってイエスが話した断片を、マタイが山上の説教として一つにまとめたものと考えられる。マタイの収集と編集により、イエスの教えが読者の心に深く残るようになったことは確かである。山上の説教が何処の山で行われたか場所の特定はできないが、想像はできる。そこはイエスが最初の宣教活動したカファルナウムに近く、緑の山がガリラヤ湖へなだらかに下ってゆく丘の中腹だったのではないか。今はその想像の場所に山上の垂訓教会が建てられ、イエスの足跡を慕う多くの人々が訪れている。
−マタイ5:1−2「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き教えられた。」
・イエスの教えには逆説が多い。最初の教え「心の貧しい人々は幸いである」からして、すでに逆説である。心が豊かであってこその幸いなら当然であるがその逆である。ただ貧しいというだけなら、財物の所有の少ない貧乏な状態だが、心の貧しさはそう単純ではない。所有の有る無しにかかわりなく、金持ちにも、貧乏人にも共通する心の在り方である。財欲にまみれ満たされないのも心の貧しさなら、愛に飢え心が渇くのも心の貧しさである。そのような人が、自分の心の貧しさに気づき、自分の無力を反省し、神により頼む心境になったときが、幸いであると教えているのである。
−マタイ5:3「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
・イエスの逆説的な説教は下記の通りである。イエスの説教の逆説は、逆説ゆえの説得力がある。
-マタイ10:39「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。
-マタイ18:4「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」。
-マタイ20:16「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。
-マタイ23:11−12「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
・どんな人でも、一生涯悲しみに遭わないことはない。悲しみの教えを字義通りに解釈するなら、何事であれ、人生の悲しみに耐えて、耐え抜いた人は幸いであるということである。人が悲しみに沈むとき、神の憐れみをひしひし感じ、友情を感じることができる。そしてその慰めが何物にも代えがたいことに、初めて気付くのである。人は悲しみから様々のことを学ぶのである。
−マタイ5:4「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」

2.山上の祝福2

・現代では積極性が尊ばれ、柔和さはしばしば無気力と混同されてしまう。しかし、すべての徳は極端を避け中庸を重んじている。柔和はその中庸なのである。柔和は無気力などではなく、過剰な感情と無気力の中間にあり、バランスのとれた状態なのである。柔和の教えを次のように言いかえることができる。すべての本能、衝動、感情を制御できる人々は幸いである。その人々は世界を受け継ぐことができるのである。
−マタイ5:5「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」
・義に飢え渇く人々とは、人の世が義に支配されること、この世が神の義によって支配されることを、渇望している人々のことである。単に自分自身が、努力して正しい行いをしようとする人々のことではない。神がイエス・キリストを通して、この世に神の秩序がうち立てられることを渇望している人々のことである。言いかえれば、罪と悪が充満したこの世界に、常に危機意識をもち、神の秩序の到来を待ち望んでいる人々のことなのである。イエスはその人々の望みは満たされるであろうと言われているのである。
−マタイ5:6「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」
・ヤコブは「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)と言っている。イエスは苛酷な取り立てをする金貸しの話しの後で、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」(マタイ18:35)と語る。また主の祈りでは「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」と祈ることを教え、赦しを強調している。そして、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:14−15)。憐れむ者だけが、憐れみをうけられるということ、これがイエスの一貫した教えである。
−マタイ5:7「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」
・「心の清い人々は、幸いである」との教えは聞く者に反省を促す。はたして自分の心が清いかどうかという反省である。清さを純粋に置き換えると、立派な行為に思えることでも、その動機が純粋だとは限らない。例えば、なにか有意義なことに金を惜しみなく出したとしても、その行いの見返りに人から誉められたい、感謝されたい、信頼されたいという欲求が心の底でうごめいていたとしたら、その行いはもはや清らかでも、純粋でもない。イエスは教えている。「だから、あなたがたは、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らはすでに報いを受けている。施しをするときには右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたがたの施しを人目につかせないためである。」(マタイ6:2−4)。
−マタイ5:8「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」
・ヘブル語の平和はシャロ−ムである。シャロ−ムに否定的な意味はなく、最高の幸福を意味している。シャロ−ムで祝福されるのは平和を作りだす人々であって、たんに平和を愛するだけ人々ではない。平和を愛するだけで何もしないことではなく、平和をおびやかす事態が起こったとき、積極的に対処して、平和を作りだし、実現させる人々こそ真に平和を愛する人々である。
−マタイ5:9「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
・日本で最初の迫害による殉教は、1597年2月5日、豊臣秀吉により処刑された26名の信徒であった。殉教者は後にカトリック教会により、聖人の列に加えられ「日本二十六聖人」に叙されている。これ以後日本ではキリスト教に対する迫害が苛烈となり、キリスト教徒でありたければ、迫害は覚悟のうえでという時代が続いた。義とは神の前での正しさである。信仰を貫き信仰のゆえに迫害された人々は、天国に迎え入れられるのである。
−マタイ5:10「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
・自分の罪のために受ける刑罰に比べれば、信仰のゆえに苦しみを受けることは、潔しというのを聞いたことがある。もしそうであるなら、イエス・キリストの名のゆえに、ののしられ、迫害され、ましてそれが身に覚えのないことであれば、なにも恐れることはないのであり、むしろ幸いなのである。イエスは迫害者を受ける者を、預言者と同列においている。だれでも神の言葉を取り継ぐ過程で迫害に遭うなら、預言者と同じ働きをしていると見なされるのである。
−マタイ5:11−12「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
・「前の預言者たちも、同じように迫害された」。エレミヤに主が臨み、彼に預言者として立つよう命じた時も、厳しい言葉がエレミヤに与えられている。
-エレミヤ1:9−10「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、わたしは、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。』」
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