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1. イエス・キリストの誕生の次第

・マタイはなぜ福音書の冒頭に「イエス・キリストの系図」を置いたのか。マタイの意図は、18節以下の「イエス・キリストの誕生」に明示されている。イエスはマリアの子ではあるがヨセフの子ではないことは、イエス誕生の記事を読む者にはよくわかることではあるが、イエスをメシアとして、ユダヤ人社会に認知させるため、どうしてもイエスをダビデの家に属するヨセフの子であることを認識させる必要があった。メシアはダビデの家系から生まれると信じられていたからである。マタイは福音書一章冒頭「イエス・キリストの系図」で、連綿と続くメシア史をまず示したうえで、「イエス・キリストの誕生」をクロ−ズアップし、福音書の導入部としたのである。
−マタイ1:18−19「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」
・当時ユダヤの婚姻は4段階で進められていた。第1段階は婚約であった。当時の婚約は当人がまだ子供のとき、顔も知らない相手を親たちにより決めることが多かった。親が結婚に介入するのは、ユダヤの結婚年齢は男性が18歳から20歳くらい、女性は12歳から14歳くらいで、まだ社会的に幼く世間知らずなので、生涯の禍福を左右する結婚を。まかせるには心もとなかったからである。
・第2段階は許婚(いいなづけ)であった。この段階は先に決めた婚約を、正式に承認することで始まった。その時点で結婚する意志がないか、あるいはなくなっていた場合は、婚約の約束は破棄できた。しかし、一旦許婚になると約束の解消はできなかった。許婚の期間は一年で、その間二人は周囲から夫婦同様に扱われた。許婚期間中に相手を亡くしてしまった女性は「やもめの処女」と呼ばれた。
・許婚の期間が終わると、第3段階は結婚式で二人は正式に結ばれる。マリアとヨセフは、許婚の期間中であった。習慣にしたがいマリアはすでにヨセフの妻同然にみられており、結婚式を挙げるばかりになっていた。しかし、そのマリアが妊娠したことを知ったヨセフは困惑し、マリアをひそかに離縁しようと考えたのである。ヨセフが困惑するのは当然であった。婚約中の不義の処罰は石打ちの刑と律法に定められていたくらい厳しかったのである(申命記22:23−24)。しかし、ヨセフの時代の1世紀頃には、石打ちの刑は実施されなくなっていた。そのかわり、離縁状を法廷に提出して判決を受け、それを公表する(申命記24:1)、または離縁状を提示して、二、三人の証人に立ち会わせ、ひそかに相手を去らせる、のどちらかをとるよう定められていた。ヨセフは第二の方法で、離縁を公表せずひそかにマリアを去らせようと考えていた。
−マタイ1:20−23「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
・ヨセフは自らの義を盾に、マリアの身の振り方を考えないような人ではなかったようである。それよりはむしろ、このような事態が、どうして起こったのかを配慮し、なるだけ、マリアを傷つけず去らせる方法を探っていたようである。マリアの懐妊は彼にはまさに寝耳に水の出来事であり、考えあぐねた末の決断だったのであった。彼にとってこの事件は、理解をはるかに越えた大事であった。ヨセフは心をかき乱され、様々に思いにふけっていると、突然主の天使が現れ聖霊によってマリアは身ごもり、男の子を産むであろうと告げられる。さらに子供の名をイエスと付けよ、その子は世を救う救い主であると驚くべきこと等を次々と告げられる。
・ヨセフの理解を越える事が更に起こったのである。マリアの妊娠は不倫ではなく、聖霊によることがわかった。事実はすべて神の意志による神の計画であったのである。古代ユダヤでは、子供が生まれて八日目に、父親が子供の名をつけねばならなかった。それは父親の義務であり特権でもあった。ヨセフはその父親の特権を放棄させられたのである。しかし、一方ではイエスが神の子であることが宣言されたのである。「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ。」これはイザヤの預言であった(イザヤ4:14)。マタイはイエスの名の意味を「神は我々と共におられる」と解説している。イザヤが預言したメシアの顕現はイエスの誕生において成就したのである。
・現代人は処女降誕につまずく。キリスト者を名乗っている人でさえ処女降誕につまずく。処女降誕に疑問を抱くことは、合理性を重んじる現代人ならば当然のことである。しかし、これはイエス以外には起こり得ない特別な出来事なのである。これを一般の常識に引き下げて考えることに無理があるのである。イエスをメシアと信じることができなければ、イエスに起こるすべては信じられないのである。イエスの父ヨセフでさえ最初は信じられなかったのである。無理に処女降誕を信じようと努力しても、努力には現界がある。なぜなら、これは信じるか信じないかの信仰の問題だからである。神が人間を罪から救うため、御子イエスをこの世に遣わされたのである。処女降誕というよりマリアに聖霊が降臨したと考えれば、処女降誕を受け入れることができるはずである。
−マタイ1:24−25「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
・ヨセフは目を覚まし、主の天使に命じられたとおりにマリアを妻として受け入れた。といっても、夢で示された翌日すぐ結婚したのではなく、イエスが生まれるまではマリアを知ることはなかったはずである。この章でマタイが語ろうとしたのは、神の霊がイエスの誕生に力強く働いたという事実である。この世界を創造し、生命を与える神の霊がイエスとなって人の世に入ってきたのである。混沌から秩序を生み出す神の力は、我々の混乱した世界に秩序を与えるのである。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと信仰に満ちていた。」(ヨハネ1:14)。

2.今日の聖書学はこの生誕物語をどう読むか

・教会の伝統では「イエスは母マリアが聖霊によって身ごもって、ダビデの村であるベツレヘムで生まれた」とする。しかし、今日の聖書学者の多くは「イエスはナザレで生まれ、その父はヨセフ、母はマリアだった」とする。パウロは、イエスはごく普通に誕生したと述べ(ガラテヤ4:4)、ヨハネ福音書はイエスを「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」(ヨハネ1:45)と紹介する。またマルコはイエスの降誕物語を書かない。他方、マタイ福音書とルカ福音書は、「イエスは処女マリアより、ベツレヘムで生まれた」と記述する。しかし両福音書の誕生物語はかなり相違しており、両方の記述を調和させることは難しい。
・マタイ福音書1−2章によれば「イエスの両親はベツレヘムに定住していたが、ヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトに亡命し、ヘロデ王の死後パレスチナに戻ってきたが、領主アルケラオス(ヘロデの息子)に不信をいだき、亡命者としてガリラヤのナザレに落ち着いた」とする。他方、ルカでは「ユダヤ地方がローマのシリア州に編入された時、ローマ皇帝アウグストスの人口調査指令により、ダビデ家出身のヨセフは身重の妻マリアを連れて本籍地であるベツレヘムに移動し、イエスはその地で生まれた」とする。新約学者P.ロロフは言う「この二つの物語は相互に調和しないだけでなく、それぞれの描写の細部において非現実的である」。マタイではベツレヘムでの幼児虐殺、東方の占星術師の来訪等が描かれ、ルカではヨセフとマリアのベツレヘムへの旅、家畜小屋での生誕、羊飼いの訪問等が描かれる。ロロフは言う「以上の考察から導き出される歴史学上の結論は、イエスがダビデ家の子孫であることは確固とした伝承の基本要素であり、その点が既に早期に一層の装飾をもたらしたという認識である」。つまり、初代教会はイエスこそ「メシア」と信じ、メシアは「ダビデの子」から生まれ、ダビデの子は「ベツレヘム」で生まれなければいけないという神学上の要請から、降誕物語を書いたのであろうとする。彼が言うように、二つの誕生物語は、「歴史的情報としてではなく、初期キリスト教におけるイエスの存在の意味付けとして読まれる時にのみ、正当に扱われている」。その通りだと思える。
・イエスの処女降誕物語は教会においては当然視され、それを疑うのは「不信仰」であるとされてきた。しかし「歴史的に処女降誕はなかった」ことは明白であり、また信仰的にも「処女降誕が中核的な信仰ではない」ことは明らかである。私たちはマタイやルカの記述は神学的告白であり、史実ではないことを素直に認める必要があろう。E・シュバイツアーはマタイ注解書の中で述べる「このような奇跡を可能と考えるか否かという点で信仰をはかることは決してすべきではないであろう。処女降誕が新約聖書において極めて小さい役割しか果たしていないだけに、なおさらである」。
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