すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.敵前での割礼授与

・イスラエルの前に雪解け水であふれるヨルダン川が立ちふさがったが、神が川をせき止められ、民は川を渡った。これを見た異邦民族はイスラエルとの戦意を失った。対岸に渡ったイスラエルに次に与えられたのは、更なる前進ではなく、留まって割礼を受けることだった。
−ヨシュア記5:2-3「主はヨシュアに、火打ち石の刃物を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施せ、とお命じになった。ヨシュアは、自ら火打ち石の刃物を作り、ギブアト・アラロトでイスラエルの人々に割礼を施した」。
・割礼は、もともと、神とイスラエルの間に結ばれた、契約のしるしである。
−創世記17:10-13「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、私とあなたたちとの間の契約のしるしとなる・・・それによって、私の契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」。
・イスラエルの民はエジプトでは既に割礼を受けていた。しかし、最初の民は主に逆らい、裁きとして40年間の荒野の旅が与えられ、死に絶えた。荒野で新しく生まれた者は、まだ割礼を受けていなかった。
−ヨシュア記5:4-5「ヨシュアが割礼を施した理由はこうである。すなわちエジプトを出て来たすべての民、戦士である成人男子は皆、エジプトを出た後、途中の荒れ野で死んだ。出て来た民は皆、割礼を受けていたが、エジプトを出た後、途中の荒れ野で生まれた者は一人も割礼を受けていなかったからである」。
・エジプトを出た民は、「怖れず行けと」の神の命にもかかわらず、前進を拒んだ(民数記14:1-3、22-23)。その裁きが40年間の荒野の放浪であり、荒野での裁きの時には恵みのしるしである割礼は施されなかった。
−ヨシュア記5:6-7「イスラエルの人々は荒れ野を四十年さまよい歩き、その間にエジプトを出て来た民はすべて死に絶えた。彼らが主の御声に聞き従わなかったため、我々に与えると先祖たちにお誓いになった土地、すなわち乳と蜜の流れる土地を、彼らには見せない、と主は誓われたのである。ヨシュアが割礼を施したのは、神がその代わりにお立てになった彼らの息子たちであって、途中で割礼を受ける折がなく、無割礼だったからである」。

2.過越の祝い

・割礼の付与により、民の罪は取り除かれた。40年間の償いの時は終わった。罪の赦しは贖い取る必要がある。
−ヨシュア記5:9「主はヨシュアに言われた『今日、私はあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた』」。
・罪を赦された民は、過越の食事を取ることが許される。40年ぶりの祝宴である。
−ヨシュア記5:10-11「イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた」。
・彼らが地の穀物を食べた時、マナは絶えた。40年間彼らを養った食物はもはや不要になったからである。
−ヨシュア記5:12「彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた」。
・過越の祝いは割礼を受けた者だけが食べることが出来る。無割礼の者は食べる事を許されないと出エジプト記は記す。
−出エジプト記12:47-48「イスラエルの共同体全体がこれを祝わなければならない・・・男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される・・・しかし、無割礼の者は誰もこれを食べることができない」。
・ヨルダン川は渡ったが、目の前にはエリコの城塞がそびえる。どのように攻略したらよいのか、ヨシュアは迷う。ヨシュアの前に主の使いが現れる。この戦いは、人の戦いではなく、神の戦いである事を保証するためだ。この個所は燃える芝の前でのモーセに現れたしるしと同じである(出エジプト記3:5「神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』」)
−ヨシュア記5:15「主の軍の将軍はヨシュアに言った『あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』。ヨシュアはその通りにした」。
・主の使いはヨシュアにエリコ陥落を約束する。その約束を受けて、イスラエルの民はエリコとの戦いに赴いた。もう勝敗の帰結はついているとの固い信念が戦いの勝利をもたらす。
−ヨシュア記6:1-2「エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。その時、主はヨシュアに言われた。『見よ、私はエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。』」
・どのような時にも、主は共におられる。それが私たちの最大の武器だ。
−ヨシュア記1:6-9「強く、雄々しくあれ・・・私の僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。・・・うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。

3.「割礼者だけが過越の食事を食べることが出来る」記事を考える

・割礼=洗礼を受けた者だけが、過越の食事=主の晩餐に預かることが出来るとの主張が今日でもなされる。その人はキリストの十字架の意味を誤解している。割礼は契約のしるしであるが、救いのしるしではない。
−ガラテヤ5:2-6「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります・・・キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。
・日本キリスト教団では、ある教会の「牧師に対し、聖餐を未受洗者に開いた廉(かど)で教団の常議員会により牧師退職勧告が出されるなど、深刻な問題が起こった」。その後、2010年「未受洗者への配餐は教憲教規違反である」との理由で、この牧師は教団により免職された。この問題は、多くの人に開かれていたキリストの教えと振る舞い(マルコ2:13〜17参照)に反して、洗礼、聖餐における律法主義的差別が現代にまで続いていることを示しているのではないだろうか。なお、この問題を巡って、今も教団を二分する論争が続いている(高橋三郎「教会と無教会」から)。
−マルコ2:13-17「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
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