すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.レビ人の聖別

・幕屋の完成・聖別の後、幕屋に奉仕するレビ人の聖別が行われた。最初は体の清めである。
―民数記8:6-7「イスラエルの人々の中からレビ人を取って、彼らを清めなさい。彼らを清めるにはこうする。彼らに罪の清めの水を振りかけ、体全体の毛をそらせ、衣服を水洗いさせると、彼らは清められる。」
・レビ人の清めは「祭儀的な清め」であり、祭司の聖別とは区別されている。祭司は油を塗られ、清めの血を振り掛けられる。祭司とレビ人はその役割を異にする。
―レビ8:30 「モーセは聖別の油と祭壇の上にある血を取って、まずアロンとその子らに、次いで彼らの祭服に振りまいて、アロンとその祭服、彼と共にいるその子らとその祭服を聖別した。」
・レビ人の聖別の第二は、レビ人に手を置いて、彼らをイスラエルの奉納物として差し出すことである。
―民数記8:10-11「レビ人を主の御前に進ませ、イスラエルの人々はレビ人の上に手を置く。次に、アロンはイスラエルの人々の奉納物として、レビ人を主の御前に差し出して主に仕える者とする。」
・「手を置く」、按手である。旧約聖書では手を置くことは、祝福と任命を意味する。
-民数記27:18-19「主はモーセに言われた。『霊に満たされた人、ヌンの子ヨシュアを選んで、手を彼の上に置き、祭司エルアザルと共同体全体の前に立たせて、彼らの見ている前で職に任じなさい。』」
・その伝統が新約にも継承され、按手は任命の意味を持った。今日でも牧師就任式では按手が行われる。
-使徒6:3-6「『兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。』・・・一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」
・按手は同時に、「贖罪」の意味も持った。犠牲の動物の頭に手を置いて彼らを屠った時、罪は人から動物に移され、それを主に捧げることで、罪の贖いが成立する。
-民数記8:12「レビ人は雄牛の頭に手を置く。アロンは、一頭を贖罪の献げ物として、他の一頭を焼き尽くす献げ物として主に捧げて、レビ人のために罪を贖う儀式を行う。」

2.贖罪としてのレビ人の在り方

・レビ人は民を代表して、身代わり(贖罪)として捧げられ、神殿奉仕に当たるものとされた。
―民数記8:13-15「あなたは、レビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉納物として主に差し出し、レビ人をイスラエルの人々から区別すると、レビ人は私のものとなる。その後初めて、レビ人は臨在の幕屋に入って、作業に従事する。あなたは彼らを清め、奉納物としなさい。」
・レビ人は民の中から聖別され、神の前に「民を覆う」者とされる。
―民数記8:16-19「彼らはイスラエルの人々の中から私に属する者とされている。彼らは、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての者、すなわちすべての長子の身代わりとして、私が受け取った者である・・・ 私はこのレビ人をイスラエルの人々の中から、アロンとその子らに属する者とした。それは、レビ人が臨在の幕屋でイスラエルの人々のために作業に従事し、彼らのために贖いの儀式を行い、イスラエルの人々が聖所に近づいても、災いが彼らにふりかからないためである。」
・レビ人は共同体のために働くが祭司ではない。今日で言えば教会執事がレビ人に相当するのではないか。
―ローマ12:1-2「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
・パウロの伝道を助けたプリスカとアキラは祭司ではなかったが、信徒として伝道の業を行った。共同体は多くの異なった働きを必要とする。ある者は牧師として、別の者は執事として働く。それぞれの働きが必要だ。祭司とレビ人、あるいは牧師と執事の違いは役割の違いであり、身分の違いではない。
―ローマ12:6-8「私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」
・重要なことは、何をするかではなく、何のために行うかである。真の教会とそうでないものの違いは、「神の栄光を求めるか」、あるいは「自分の栄光を求めるか」により区別される。
―ヨハネ8:54「私が自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、私の栄光はむなしい。私に栄光を与えてくださるのは私の父である。」

3.旧約の伝承としての贖罪をどう考えるか

・旧約聖書における罪の贖いが新約にも継承され、イエスの十字架死を、初代教会の人々は、「罪を贖う犠牲」として受けいれた。
-へブル9:11-12「キリストは、既に実現している恵みの大祭司として・・・人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
・ヨハネの手紙3章は贖罪について語る。ヨハネにとって「愛する」とは「相手のために命を捨てる」ことであり、その根拠は「イエスが私たちのために命を捨てて下さった」という贖罪への感謝にある。
-第一ヨハネ3:16「イエスは、私たちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
・ヨハネは贖罪愛の意味を4章でも繰り返す。
-第一ヨハネ4:10-11「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」
・キリスト教の根本教理は、「贖罪による救い」である。神の子が私たちのために死んでくださった、だから私たちも他者のために死んでいこうと信仰だ。この贖罪愛が私たちをキリスト者とする。しかし贖罪をどう理解するかは、実は難しい問題だ。現代の聖書学は「イエスは自らの死の必然性、その意義、結果を語らなかった。しかし弟子たちはイエスの死後に、イエスの死の必然性と意義を語り始め、これが贖罪論、救済論、和解論の成立をもたらした」(橋本滋男「多元化社会における神学と教会」)と考える。
・歴史のイエスは、社会の中で周辺に追いやられていた徴税人や娼婦、病人等の救済のために働かれ、その結果支配階層であるユダヤ教当局者(祭司、律法学者、ファリサイ派)と対立され、ローマ当局からも治安を乱す危険人物とみなされ、殺された。イエスご自身は「生きて神の国の到来を告知され、自分の死によって救済が成るとはお考えにならなかった」。だからゲッセマネでは「この杯を私から取り除いてください」と祈られ(マルコ14:36)、十字架上では「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた(同15:34)。イエスは神の見捨ての中で死んで行かれたが、父なる神はイエスを見捨てられなかった。神はイエスを死からよみがえらせ、復活のイエスに出会った弟子たちは、イエスを神の子、キリストとして拝し、イエスの死と復活を通して自分たちの罪が赦されたと旧約聖書の預言を通して理解した。この理解を私たちも継承している。
−イザヤ53:11「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。
・西南学院神学部・松見俊先生は語る「イエスはただ贖罪のために生まれてきた(死ぬために生まれてきた)というようなイエス・キリストへの信従、貧しい者・社会的に周辺化された人たちとの共感共苦という倫理性を欠いた贖罪信仰は、『安価な恵み』である・・・しかし、神話的表象で表現されてきたリアリティそのもの(罪の根源性と人間による罪の克服不能性、それを打ち破る救い)は失われるべきではない。イエス・キリストが命がけで私たちを愛して下さり、私たちの『ために』死んで下さったということが契機・動機づけにならないと、イエス・キリストに従い、他者と『共に』生きる倫理的行為は成立しない」。(「犠牲のシステムとキリスト教贖罪論」、西南学院神学論集、2013/3)。
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