すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.病気や不浄者の排除

・民数記5章は、共同体から不浄を排除するための規程である。最初に排除されるのが、らい病者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者である。これは伝染病等から共同体を守るための施策である。従って、快癒した者は共同体に戻ることが許された(レビ記14−15章)。
−民数記5:2-3「イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。男女とも、必ず宿営から出しなさい。私がそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。」
・病気等の不浄者は共同体から排除され、宿営の外に住むことを余儀なくされた。イエスはこの排除されている人々を聖別するために、宿営の外に行かれ、らい病人を癒し、長血をわずらう女に触れられた。
−マルコ1:40-43「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」
・重い皮膚病=ギリシア語レプラは、ヘブル語「ツァラァト」の訳語だ。ツァラァトとは「打たれたもの」、病人は神に打たれた者、神に呪われた者として、宗教的に「汚れた者」とされた。この病気は細菌によって顔や手が崩れていくその症状から人々に忌み嫌われ、また伝染する故に恐れられていた。町の中に入ることは許されず、道を歩く時には「私は汚れているから近寄らないで下さい」と言わねばならなかった(レビ記13:45-46)。そのらい病人がイエスのところに来たことは、「近寄ってはいけない」という境界線を超え、命がけでイエスに近づいて来たことを示す。彼はイエスに言う「清めて下さい」。「らい病」者は、汚れているとして社会から排斥され、汚れているとされたから「清め」が必要なのだ。その必死さの中に、イエスは彼の信仰を認められた。イエスは彼に「触れて」、いやされた。らい病者に触れることは律法が禁止していたが、らい病者の必死な求めに、イエスもまた律法を破ってまで対応された。

2.財産侵害の排除

・二番目に排除されたのが「横領」等、隣人に対する財産侵害の罪である。罪が認められた場合は、盗んだ物を賠償すると同時に、20%の損害金を支払うことが求められた。
−民数記5:6-7「男であれ、女であれ、何か人が罪を犯すことによって、主を欺き、その人が責めを負うならば、犯した罪を告白し、完全に賠償し、それに五分の一を追加して損害を受けた人に支払う。」
・古代においてこのような賠償制度はイスラエル特有のものである。隣人に対する罪は、神に対する罪とされる。それ故、賠償すべき近親者がいない時は、祭司に支払うことが求められる。
−民数記5:8「その賠償を継ぐべき近親がいない場合、その賠償は主のものとなり、祭司が受け取る。このほかに、祭司はその人のために罪の贖いの儀式をする贖罪の雄羊を受け取る。」
・この近親者はヘブル語「ゴーエール」、贖う者の意味を持つ。ゴーエールは近親者が奴隷に売られた時にはそれを買い戻し、近親者が殺された時には、死の復讐をする義務を持つ程の強い意味を有する。
−ヨブ記19:25「私は知っている。私を贖う方(ゴーエール)は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」。
・この考え方は新約聖書にも引用され、パウロはイエスこそ私たちのゴーエールだと語る。
−1コリント6:19-20「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られた(ゴーエール)のです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。

3.姦淫の罪の排除

・最後は共同体からの姦淫の排除である。姦淫は共同体の秩序を壊す故に、「石で殺せ」と言われる。
−レビ記20:10「人の妻と姦淫する者、隣人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」
・ただ姦淫を犯したかどうかは立証が難しい。そのため、疑いがある場合は祭司の元に連れてきて、祭儀的審判を受けるように求められた。
−民数記5:12-15「ある人の妻が心迷い、夫を欺き、別の男と性的関係を持ったにもかかわらず、そのことが夫の目に触れず、露見せず、女が身を汚したことを目撃した証人もなく、捕らえられなくても、夫が嫉妬にかられて、事実身を汚した妻に疑いを抱くか、あるいは、妻が身を汚していないのに、夫が嫉妬にかられて、妻に疑いを抱くなら、夫は妻を祭司のところへ連れて行く。」
・祭司は疑いを持たれた女に対して、苦い水を飲むように求める。もし女が無実であれば女は何の身体的異常も示さないが、女が有罪であれば、彼女の子宮は破壊され、もう子が生めなくなる。
−民数記5:19-21「祭司は女に誓わせてこう言う。もし、お前が別の男と関係を持ったこともなく、また夫ある身でありながら、心迷い、身を汚したこともなかったなら、この苦い水の呪いを免れるであろう。しかし、もしお前が夫ある身でありながら、心迷い身を汚し、夫以外の男に体を許したならば、主がお前の腰を衰えさせ、お前の腹を膨れさせ、民の中で主がお前を呪いの誓いどおりになさるように。」
・ここでは女だけが姦淫の罪を負う。当時の父権社会の中ではやむを得ないかもしれない。それだけにパウロの「キリストにあっては男も女もない」という言葉が際立つ。
−ガラテヤ3:27-28「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
・イエスは姦淫の罪を犯したとして連れてこられた女を赦された。
−ヨハネ8:10-11[「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか』。女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。」〕
・この姦淫の女の記事(ヨハネ7:53-8:11)は新共同訳では〔 〕の中に書かれている。古い写本に記載がなく、後代の加筆の可能性が高く、資料的な問題があることを示す。伝承そのものは古く、イエスに由来することは争いがない。おそらく「罪を犯したにもかかわらず、罪を無条件に赦す」イエスの態度に、教会の人々が戸惑ったからだと思える。「姦淫のような重い罪を犯した者を無条件で赦せば、世の秩序は保てない。いくらイエスの言葉だからと言って受け入れがたいではないか」と考えた人々が、この記事を当初は福音書に編入しなかった。しかしこれはイエスの心を斟酌しない解釈だ。イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない・・・これからは、もう罪を犯してはならない」、この言葉は刑の執行が猶予されていることを示す。ここに、「人を滅ぼすための裁き」ではなく、「人を生かすための裁き」が為されている。女を律法通り石打の刑で殺した時、一人の命が失われ、そこには何の良いものも生まれない。しかし、女に対する処罰を猶予することによって、女は生まれ変わり、新しい人生を生き始める。これこそがイエスの為された「人を生かすための裁き」なのだ。
・私たちは自分の体を購われたものとして清く保つことが求められる。しかし、体を汚した人をも排除しない。何故ならば、汚れた私たちをイエスが清めて下さったからだ。
−1ヨハネ1:7「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」

4.不浄規定とイエス

・イエスがエルサレム城外で十字架にかかられた行為の中に、人々は排除された人々への慰めを見た。だから、イエスの弟子たちは、これらの不浄とされた人たちと深くかかわるようになる。
−ヘブル13:12-13「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、その御許に赴こうではありませんか。」
・イエスがいやされたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、汚れた者とされていた人々だった。らい病を患う人に対し、イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」、癒された。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い、棺に手を触れ」、彼を生き返らせた(ルカ7:11-17)。らい病者に触れること、死者に触れることはいずれも「汚れ」として禁止されていた行為だった。イエスは自らの身に社会的制裁を受けることによって、病む者たちの痛みを共有された、この「痛みの共有」こそ、私たちに必要なものだ。私たちには治癒はできないが、痛みの共有は可能だ。痛みを共有することによって「病む人」を教会に迎え、教会を安息の場として提供する。
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