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2016年11月25日祈祷会(出エジプト記15章、救出の後で)

1.神の救いの業に対する讃美

・葦の海の奇跡を見て、民は讃美して歌い、踊った。出エジプト記15章には二つの賛歌が見られるが、伝承史的にはミリアムの歌(15:20-21)が最初に歌われ、モーセの歌(15:1-18)はそれの拡張版とされる。
―出エジプト記15:20-21「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。」
・モーセの歌では、13節以下は民が約束の地に入り、そこに住み、神殿で礼拝する様を歌っている。おそらくは神殿礼拝で歌われた讃美が、後の編集時に物語の中に挿入されたものであろう。
―出エジプト記15:13-18「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた・・・あなたは彼らを導き、嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして、自ら造られた所。主よ、御手によって建てられた聖所です。主は代々限りなく統べ治められる。」
・葦の海渡河の出来事がヨルダン川渡河においても繰り返される。これらの歌は礼拝の讃美歌なのだ。
―ヨシュア記4:22-24「子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いた所を渡ったのだと教えねばならない。あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである。それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」
・礼拝とは神が行ってくださった恵みに対する応答なのだ。人間の具体的な窮状に対して神が行為される。その行為を讃えるものが礼拝だ。
―出エジプト記15:11-12「主よ、神々の中に、あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか。あなたが右の手を伸べられると、大地は彼らを呑み込んだ。」
・旧約学者ミヒャエル・フィッシュベインは出エジプトという歴史的な出来事が、祭儀を通して歴史を超えた救済論になったと考える。
−フィッシュベイン・古代イスラエルの聖書的解釈から「イスラエル史の中で敵対者の敗走が、原初的な宇宙論的出来事の再現として予型論的に表現されることによって、歴史的な贖いは一種の世界回復になり、歴史の発展は神の力の創造行為を繰り返すものとなった・・・神の闘争と勝利の神話的な姿は、歴史的な出来事にひそむ原初的な原動力を明らかににするための象徴的なプリズムとなり、差し迫った歴史の反復の希望を生み出した」。
・先週掲載したカトリック司祭・和田幹男氏の言葉を補足的に再記する。
−和田幹夫「出エジプトの出来事は世界史的には規模の小さい出来事であったが、これを体験したヘブライ人の集団とその子孫にとっては忘れられない大きな出来事であった。人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。この歴史上の実際の体験を通じて、彼らはその神が如何なるものであるかをも知り、全く新しい神認識に至った・・・歴史を導く神というイスラエル独特の神の認識がそれ以来始まったのではなかろうか。出エジプトは救いの原体験のようなものであったから、その後くりかえし体験される救いも出エジプトをモデルに考えられるようになった・・・こうして、『新しい出エジプト』ということが言われる。キリスト教徒にとって罪の束縛状態から解放され、恩恵の世界に生きる道を開かれたイエスの死と復活こそ新しい出エジプトである」。
・ここにおいて「歴史が神話となった」。その後、イスラエルの苦難の時に、預言者たちは「歴史を導く」神の名を呼び続けた。
−イザヤ書51:9-10「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに、遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは、あなたではなかったか。海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか。」

2.荒野の放浪の始まり

・後世から振り返れば、出エジプトは「偉大な救済の出来事」であった。しかし渦中にいる民には、それは一過性の出来事であり、困難が来れば、すぐに忘れてしまう。約束の地に導かれるはずの民が、荒野に導かれた。荒野を見た時、民の歌と踊りは止み、彼らは呆然とそこに立ち尽くした。
―出エジプト記15:22-23「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。」
・葦の海の救出から三日後に民は呟きを始める。飲み水の欠如は讃美の歌声を消し去る。私たちは神のしるしを見ても、三日たつと忘れてしまう存在だ。だから繰り返し礼拝することが必要なのである。
―出エジプト記15:24「 民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った。」
・約束は為された、しかし、言葉だけで誰が生きていけよう。希望は告知された、しかし、目の前に見えるのは荒涼の土地だ。信仰はたやすく揺らぐが、神はその民の呟きにも応えられる。ある種の木の樹皮や葉には水を浄化する作用がある。ワサビノキの抽出物は、原始的な水のろ過システムに使用されている。
―出エジプト記15:25a「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。」
・民に戒めが与えられる。戒めは秩序を与え、秩序は安全を保障する、荒野では戒めを守らないと危険で生きていけないからだ。
―出エジプト記15:25b-26「その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、言われた。『もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病をあなたには下さない。私はあなたをいやす主である。』」
・後にそれは、戒めを守れば祝福(安全)が、戒めを破れば呪い(危険)が与えられるという理解に拡大されていく。戒めに祝福と呪いが伴うのは、荒野での生存のためにそれが必要だからだ。しかし沃地では戒めは不要になり、民は戒めを守らなくなる。私たちもまた荒野に生きる。荒野こそが神の民として生きる場所なのである。民は約束の地に入った途端に堕落を始める。人間とはそのようなものだからこそ、荒野に招かれる。
―申命記6:10-15「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい・・・あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。」
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