すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.召命の再確認

・モーセはファラオに、「民をエジプトから解放せよ。それが私たちの主の命令だ」とイスラエルの民の解放を求める。それに対するファラオの態度はモーセの予想以上にかたくなであった。
―出エジプト5:2「ファラオは、『主とは一体何者なのか。どうして、その言うことを私が聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。私は主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた。」
・ファラオは民の労役を重くし、そのため民は、モーセが本当に「神の使いかどうか」に、疑問を持つようになった。
―出エジプト5:21「彼らは、二人に抗議した。『どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。』」
・そしてモーセ自身もこの失敗を通して、神に不信を抱く。「行けといわれたから行ったのに、なぜこんなみじめな失敗をしなければいけないのか」。
―出エジプト5:22-23「モーセは主のもとに帰って、訴えた。『わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。私を遣わされたのは、一体なぜですか。私があなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」
・召命を受けた人は、挫折や失望を通じて、神の用を務める器になって行く。そのモーセに神は再度、「解放の約束」を繰り返され、再度エジプトに行くことを求められた。
―出エジプト6:1「主はモーセに言われた。『今や、あなたは、私がファラオにすることを見るであろう。私の強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。私の強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」

2.自分の名を明らかにされる神

・族長たちに現れた神は「全能の神(エル・シャダイ)」であった。民を守り、救済する、万軍の主である。しかしモーセに現れた神は「主(ヤハウェ)」の神、私は必ずあなたと共にいる(インマヌエル)を約束する神であった。
-出エジプト記6:2-3「神はモーセに仰せになった。『私は主である。私は、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という私の名を知らせなかった。』」
・主は民の苦しみの声を聴き、行動を起こされる神である。
-出エジプト記6:4-5「私はまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。私はまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、私の契約を思い起こした。」
・主は、民もファラオも従わない状況下で、解放の約束を繰り返される神である。
―出エジプト6:6-8「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。私は主である。私はエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、私はあなたたちを私の民とし、私はあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。私は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。私は主である。」
・モーセは神の励ましを受けた後、再度民に語ったが、民は現実の厳しさを見て、モーセの言葉を聞かなかった。人は苦難の中で押しつぶされている時は、神の言葉を聞くことは出来ない。
―出エジプト6:9「モーセは、その通りイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」
・失望するモーセに、主は再度「エジプトに行ってファラオに語れ」と命じられる。モーセは拒否する。
-出エジプト記6:10-12「主はモーセに仰せになった。『エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。』モーセは主に訴えた。『御覧のとおり、イスラエルの人々でさえ私に聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のない私の言うことを聞くでしょうか。』」
・主はそれでもモーセに、「エジプトへ行き、与えられた務めを果たせ」と命じられる。
-出エジプト記6:13「主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。」

3.生きる希望をなくしている人々に何を語れるのか

・モーセは神の励ましを受けた後、再度民に語ったが、民は現実の厳しさを見て、モーセの言葉を聞かなかった(6:9)。人は現実の厳しさを見、将来への希望を失った時、神の言葉を聞くことは出来ない。その時、私たちはどうすればよいのか。例えば、ある老人が、「私はただこのホームで死を待っているだけだ」とつぶやく時、何を語ることが出来るのか。
・ユダヤ人の精神科医ビクトール・フランクルは、アウシュヴィッツ強制収容所で医者として働き、苦難の中に死んでいく、多くの同胞たちを見た。ある時、二人の男がフランクルを訪ねて言った「もはや人生から何も期待できない」と。死にたいと訴える二人に対して、フランクルは語る「それでも人生はあなた方からあるものを期待している。」戸惑う二人に、フランクルはさらに言う。「あなたたちを“ 待っている ”何かがあるはずだ」。一人の男は「愛してやまない子供が外国で私を待っている」ことに気づく。科学者だったもう一人の男は「科学の研究書をまだ書き終えていない。この仕事が私を待っている」と思い出した。フランクルは二人を待っているものこそが、「生きる意味」なのだと気づかせた。彼は書く「待っている仕事、あるいは待っている人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできない」(フランクル『夜と霧』、187頁)。
・「人生から何をわれわれはまだ期待できるか」が問題なのではなくて、むしろ「人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」とフランクルは語る。私たちは人生がうまくいかない時には「生きる意味などあるのか」とつぶやく。しかしフランクルは言う「私たちが人生を問う前に、人生が私たちを問うている」。 人生に何かを求め続けている間は、永遠の欲求不満の状態になってしまう。いつも空虚感が支配せざるを得ない。しかし、「誰かのために、世界のために、できることは何があるのだろう」と問う時、人生の意味が変わる。彼は書く「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである・・・すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである」(『夜と霧』、183頁)。
・フランクルは「どんな人のどんな人生にも意味がある」と訴える。どんな人のどんな人生にも「見えない使命」が与えられている。それを見つけて果たすことによって、初めて人生は全うされる。欲望中心の生き方をしている限りは、欲望は満たされない。「意味」と「使命」中心の生き方に転換しないと、心の奥底から私は幸せだと納得のいく人生は手に入らない、とフランクルは考えている。 フランクルは晩年、アメリカで死刑囚のいる刑務所に行って講演を行い、語った。「明日もしあなたが死刑になるとしても、今からでも人生を意味あるものに変えるのに、遅すぎることは決してない」。人生の意味を見つけるのは最後の瞬間まで諦める必要はないと彼は言う。もし死刑囚が生きる意味を見いだせるのであれば、老人ホームに入居する人はさらに見出せるのではないか。
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