すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.犠牲の動物を捧げて礼拝する

・エジプトを解放された民はシナイ山のふもとで、幕屋を作り、神を礼拝するように命じられる。その礼拝は犠牲を捧げることから始まる。レビ記1−7章はその犠牲の捧げ方を詳述する。
―レビ1:1-2「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。」
・その献げ物は「無傷の雄=全きもの」でなければいけない。余りものを捧げるのではなくて、自分にとって最上のものを捧げよと命令されている。
―レビ1:3a「焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。」
・何故、まず犠牲を捧げる事が礼拝として求められるのか。神は犠牲の動物を必要とされない。そこで求められるものは、自分が罪を犯し、それを悔い改め、神の前に謝罪を求めているのかの心である。ダビデは罪を犯し、それをナタンに指摘された時、涙を流して犠牲を捧げた。
―詩篇51:1-19「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。『神よ、私を憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。・・・神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。・・・もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。』」


2.燔祭の献げ物ー焼き尽くすもの


・燔祭とは焼き尽くすことだ。遊牧の民にとって、牛や羊は貴重な財産だった。自分の分身とも言うべき家畜を、奉納者が自分の手で殺し、祭司に渡す。奉納者は牛の悲鳴を聞いて、自分自身がほふられる痛みを感じる。
―レビ1:3-4「奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置く。それはその人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。奉納者がその牛を主の御前で屠る」
・人は財力に応じて、金持ちは牛や羊を、貧しい人は鳥をささげることが出来た。何を捧げるかではなく、どのような心を捧げるかが最も大事なのである。多くを捧げても、痛みを伴わない献げ物は価値がない。
―ルカ21:2-4「ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」
・痛みを感じる。私たちが肉を食べる時、それは他の動物の命を食べる行為であり、人間は他者を殺してしか生きることが出来ない存在であることを知る。その時に私たちは献げ物の意味を知る。
・祭司はその血をとって、祭壇に注ぐ。動物の命は血にあり、血を注ぐとは命を与えた方に命を戻す行為だ。
―レビ17:11「生き物の命は血の中にあるからである。私が血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」
・今日の私たちは、もはや動物を殺して、その犠牲の血を祭壇に振り掛ける礼拝をする必要はない。犠牲の血としてイエス・キリストの血が流されたからだ。イエスの十字架を、痛みを持って覚えることこそ礼拝である。
―ローマ3:25「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」
・旧約の民は祭司の行為と祭壇の火と煙を見、その音を聞き、そのにおいをかぐことによって、自分達の罪が赦され、燃やされることを実感した。私たちはキリスト者として生きることを通して礼拝を行う。
―ローマ12:1「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
・今の私たちに求められているのは、自分をキリストのために捧げることだ。「十字架を負ってキリストに従う」とはそういうことだ。
―ルカ9:23-25「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」
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