すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.アブラハムに与えられた試練

・アブラハムはメソポタミヤの遊牧民だったが、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」(12:1)との召しを受けて、約束の地カナンを目指して旅立った。その時アブラハムに、「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(12:2)との約束が与えられた。その後、何度も約束が繰り返されたが、子は与えられず、25年の時が流れて、やっと待望の子イサクが与えられた。
−創世記21:3-6「アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられた通り、八日目に、息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれた時、アブラハムは百歳であった。サラは言った『神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』」。
・ところが神はアブラハムに、その一人子イサクを「焼き尽くす犠牲として捧げるように」と命じられる。
−創世記22:1-2「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が『はい』と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい』」。
・イサクは約束の子、「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」(21:12)と神ご自身が言われた、その子を「殺せ」と命じられる。それは神が約束を反故にすることであり、アブラハムのこれまでの歩みが全く否定されることだった。彼は動揺し、迷ったであろう。しかし一言も反論せずに旅立つ。
―創世記22:3「次の朝早く、アブラハムは驢馬に鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った」。
・道中、アブラハムはいろいろなことを考えたであろう。彼はこれまでの歩みを通して、主の約束は確かであることを知っていた。彼は主がいかにして不妊の妻サラの胎を開かれたかを見ている。高齢になり、月のものも無くなったサラに(18:11)、子が生まれ、「主に不可能なことはない」(18:14)ことを知っている。「主は何らかの形でイサクを戻してくださるだろう、どのようにしてかはわからないが従って行こう」、アブラハムはそう考えながら、長い道のりを歩いたのではないだろうか。やがて目的地が見えた。
−創世記22:4-5「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った『お前たちは、驢馬と一緒にここで待っていなさい。私と息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる』」。
・アブラハムはイサクだけを連れて山に登る。その時、イサクが訊ねる「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。アブラハムは「主が備えて下さる」と返事する。
−創世記22:6-8「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに『私のお父さん』と呼びかけた。彼が『ここにいる。私の子よ』と答えると、イサクは言った『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか』。アブラハムは答えた『私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる』。二人は一緒に歩いて行った」。

2.アブラハムの信仰を見て、神が動かれた

・アブラハムは無言で神の命令を実行しようとし、イサクに刃物を振りかざした。
―創世記22:9-10「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」。
・その時、神の制止命令が響く。
―創世記22:11-12「その時、天から主の御使いが『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私にささげることを惜しまなかった』」。
・その声にアブラハムがあたりを見渡すと、近くの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られているのが見え、アブラハムはその雄羊を捕えて、息子の代わりに焼き尽くす捧げ物として捧げた。アブラハムは息子を捧げようとしたが、主が息子を返し、代わりに犠牲の雄羊を用意してくださった。彼はそのことに感謝し、礼拝を捧げ、その場所をヤーウェ・イルエ(主が備えたもう)と名づけた。
−創世記22:13-14「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている」。
・ここで再びアブラハムへの祝福の約束が語られる。
−創世記22:15-19「主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った『私は自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである』。 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ」。

3.この物語は何を私たちに示すのか

・この物語は新約記者によって、「信仰の決断」として賞賛されている。教会の伝統は、この物語を「アブラハムへの試練と信仰」として理解している。
-ヤコブ2:21「神が私たちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」。
-ヘブル11:17-19「信仰によって、アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです・・・アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」。
・他方、ユダヤ教の伝承では、この物語を「イサク縛り」(アケダー、縛る)と呼ぶ。アブラハムは「息子イサクを縛った」(22:9)、この「縛る」という言葉は犠牲動物の足をひもで結びつける行為であり、ユダヤ人にとって人間を犠牲として捧げる行為は、律法で禁止されたおぞましい行為だった。そのためユダヤ教ではアブラハムの行為ではなく、イサクの犠牲に焦点を当てた見方がされている。
−申命記18:10-11「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」。
・この時イサクは何歳だったのだろうか。彼は燔祭の薪を背負うことが出来たから(22:6)、相応の年齢だった。イサクは行為の意味を理解しており、伝承は、イサクはこの出来事に大きな衝撃を受けて人格が変わってしまったと伝える。また事件の直後にサラが死んでいるが(23:1)、サラの死はイサクのアケダー(縛り)によってもたらされた精神的衝撃の結果だとする伝承もある。ユダヤ人はその後の歴史の中で繰り返し迫害を受けているが、この迫害は「ホロコースト」と呼ばれる。ホロコーストはギリシア語、焼き尽くす捧げ物を意味する。ユダヤ人たちは、アブラハムがイサクを犠牲として捧げた物語の中に、アブラハムの子である自分たちが犠牲として捧げられてきた民族の迫害の歴史を読み込んでいる。
*ホロコースト「全部 (holos)」+「焼く (kaustos)」に由来するギリシア語「holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、元来は、古代ユダヤ教の祭事で獣を焼いて神前に供える犠牲、燔祭を意味していた。のち転じて、大虐殺を意味するようになった。ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」であり、「焼き尽くす捧げもの」を意味した」。
・この物語は近代人にも大きな影響を及ぼしている。キルケゴールはこの物語を受けて、「恐れとおののき」を書いたが、その中でこの出来事は犯罪であったと述べる。この物語は信仰的に考えれば「犠牲の捧げ物」だが、社会的に考えれば、「殺人、あるいは殺人未遂」というおぞましい行為である。イサクやサラの視点に立てば、アブラハムを手放しで賞賛することはできない。
−恐れとおののきから「ある牧師が日曜日の説教で“アブラハムは最善のものを捧げた。そこに信仰の偉大がある”と賞賛した。それを聞いた一人の男が“自分も真の信仰者になるために子どもを捧げたい”と申し出た。牧師は怒って言った“自分の息子を殺そうとするなんて、何という悪魔にとりつかれたのか”」。
・イサク奉献の物語は「神の試み」から始まり、「神の備え」で終わる。創世記22章の主題はアブラハムの信仰でもなく、イサクの犠牲でもなく、「神の備え」なのではないか。「神備えたもう」、この「摂理の信仰」こそが、創世記22章のメッセージであろう。アブラハムは妻サラが高齢でかつ不妊であったのにイサクを生んだのを見て、「主に不可能なことはない」(18:14)ことを信じ、それ故にイサクを捧げよとの不条理な命令にも従ったのである。
*摂理は英語ではProvidenceと言う。pro事前に、video見る、神が見て下さる、私たちの目から見えなくとも必要なものを備えていて下さる、それが摂理である。
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