すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.イサクの誕生

・長い間約束されていた子が終に生まれた。サラは男の子を生み、アブラハムは子にイサクという名前を与える。イサク(彼は笑う)、高齢のアブラハム夫妻に笑いが与えられた。
−創世記21:1-4「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した」。
・サラは不可能を可能にする神を賛美して歌う「神は私に笑いをお与えになった」と。
−創世記21:5-7「息子イサクが生まれた時、アブラハムは百歳であった。サラは言った『神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』。サラはまた言った『誰がアブラハムに言いえたでしょう、サラは子に乳を含ませるだろうと。しかし私は子を産みました、年老いた夫のために』」。
・イサクが生まれた時、アブラハムは100歳、サラは90歳であったとされる。不可能を可能にする神の業が示された。後代の人々は二人の信仰がそれを可能にしたと二人を讃える。
―ローマ4:18-22「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていた通りに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」。
・しかしパウロの称賛は事実と異なる。創世記のアブラハムは子の誕生を疑ったし、サラも信じなかった。私たちは事実を見つめたうえで神の奇跡を見る必要がある。神は人間の不信にもかかわらず、その業をなさる。
−創世記17:17「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか』」。
−創世記18:12「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。

2.イシマエルの追放

・イサクの誕生でアブラハム家に笑いが生まれた。しかしその笑いが一瞬にして悲劇に変わる。感謝してイサクを受け取ったサラが、今度は嫉妬のために側室の子イシマエルの追放を画策する。
−創世記21:8-10「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」。
・子の生まれないアブラハム夫妻はイシマエルを相続人として育ててきた。イシマエルもまたアブラハムの子なのである。しかし正妻の子が生まれると、側室の子は邪魔になる。サラの信仰も現実の前に砕ける。アブラハムは二人の子を前に悩む。しかし神は、「相続人はイサクであり、イシマエルは追放せよ」と言わ、アブラハムは神の言葉に従う。
−創世記21:11「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ』」。
・アブラハムはイシマエルとその母を追放する。二人の生存は主に委ねられた。
−創世記21:14「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった」。
・母と子が荒野をさまよう。彼らはやがて水がつき、死を覚悟する。
−創世記21:15-16「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、『私は子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」。
・しかし神はイシマエルとその母を保護される。彼もまたアブラハムの子だからである。
−創世記21:17-21「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする』。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいた時、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた」。

3.新約聖書はこの物語をどう受け止めたのか

・パウロはガラテヤ書の中で、イサクを霊の子と呼び、イシマエルを肉の子と呼んで区別し、ユダヤ人同胞にあなた方は霊の子であり、相続人であると強調する。
−ガラテヤ4:22-31「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした・・・兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あの時、肉によって生まれた者が、"霊"によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります。要するに、兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」。
・創世記は「イシマエルがイサクを迫害した」とは記していないし、神は「イシマエルをも顧みられた」とある。パウロでさえ、聖書の読み方を間違えるのだろうか。へブル書もまたアブラハムとサラの信仰を強調している。人は聖書からも読みたいことを読んでいくのだろうか。
−へブル11:11-12「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」。
・ユダヤ教は、通常イシマエルのことをよこしまな人物として見ていた。新約聖書では、イシマエルへの言及をほとんど含んでいない。イシュマエルは、例えば律法としてのユダヤ教の象徴とされてきたが、現在イサクと比肩してみなす伝統は拒絶されている。イスラムでは、イシュマエル(イスマーイール)に対して肯定的な見方で、神と神の使いの特別な加護のあった母子は神聖視されていて、イシマエルを聖書内の比較でより大きな役割、預言者や犠牲の子として見る。例えば大巡礼(ハッジ)におけるザムザムの泉への往復は荒野に追われたハガル・イシマエル母子を追体験するものとされている。イスラムの伝統では、イシマエルを全てのアラブ人の先祖とみなしている。イスラム教の開祖ムハマッドは「コーラン」の中で、みずからをイシマエルの子孫と称しているという。
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