すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.契約のしるしとしての割礼

・アブラハムが99歳になった時、主はアブラハムの前に現れ、アブラハムに約束の言葉を再度語られた。
―創世記17:1-3「アブラムが九十九歳になった時、主はアブラムに現れて言われた『私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい。私は、あなたとの間に私の契約を立て、あなたをますます増やすであろう』。アブラムはひれ伏した」。
・これは三度目の主の顕現であった。最初は出立の時(75歳、12:1-2)、二度目は契約の時(85歳、15:17-18)、三度目が今回である。
―創世記12:1-2「主はアブラムに言われた『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように』」。
―創世記15:17-18「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた『あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで』」。
・最初の約束から24年が過ぎている。アブラハムにはいまだに子はなく、土地も与えられていない。そのアブラハムに約束が繰り返される。アブラハムはどのような気持ちでこの約束を聞いたのであろうか。
―創世記17:4-6「これがあなたと結ぶ私の契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。私は、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう』」。
・契約を機に、アブラハムは改名を命じられる(アブラム→アブラハム)。そして契約のしるしとして、男子は割礼を受けるように命じられる。
―創世記17:9-11「だからあなたも、私の契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、私とあなたたちとの間の契約のしるしとなる」。

2.息子誕生の約束

・妻サライも名を変えるように言われる(サライ→サラ)。そしてサラを通して後継ぎを与えると約束されるが、アブラハムはこれを笑う。
―創世記17:15-17「神はアブラハムに言われた『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。私は彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る』。アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか』」。
・疑うのが当然である。24年間も成就しない約束を信じ、高齢になった老夫婦に子を与えるとの約束を信じることができるだろうか。アブラハムは先に側女ハガルとの間にイシマエルをもうけている。彼を跡継ぎにすると言明するが、神はその子ではないと言われる。
-創世記17:18-19「アブラハムは神に言った『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように』。神は言われた『いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする』」。
・サラもアブラハム同様に神の約束を信じることはできない。
―創世記18:11-12「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、サラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。
・100歳の男と90歳の女からどうして子が生まれよう、冷笑するしかない出来事ではないか。信仰の父と呼ばれるアブラハムでさえ、信じることはできなかった。そのアブラハムを主は用いられる。二人が信じたのは約束が現実になった時である。
-創世記21:1-6「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられた通り、八日目に、息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれた時、アブラハムは百歳であった。サラは言った『神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』」。
・神はアブラハムに言われる「私は全能の神であるゆえに、あなたは全き者となれ」。この全き=ターミームは道徳的な完全ではなく、神を信じることにおいての完全である。アブラハムはこれまでも繰り返し神を疑い、約束を待てず、自分の力で子を持とうとしてきた。そのアブラハムに改名が言い渡され、この日から疑う者、待てない者ではなく、信じて待つ者、神に己を委ねる者になれという意図がそこに込められている。

3.割礼なしに人は救われるのか

・割礼は男性器の包皮部分を切り取る行為で、ヘブライ民族独特のものではなく、エジプト人やアラブ人にも割礼の習慣があった。砂漠の民族の衛生上の処置であった。しかし割礼に宗教的意味を認めたのはヘブライ民族のみであった。創世記17章を書いているのは、バビロンに捕囚された祭司たちである。割礼ゆえにヘブライ民族は他民族と区分され、捕囚を越えて民族として生き残ることができた。その割礼の起源を祭司たちはアブラハム時代に求めた。
・ヘブライ人は生まれて8日目に割礼を受け、無割礼の者は過越祭りを共に祝うことはできなかった。
-出エジプト12:43-48「過越祭の掟は次のとおりである。外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる・・・もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとする時は、男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される。彼はそうすれば、その土地に生まれた者と同様になる。しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない」。
・割礼は契約のしるしであったが、いつの間にか、割礼を受ければ救われると誤解されるようになった。エレミヤを始めとする預言者たちは繰り返し、「体の包皮ではなく、心の包皮を切り取れ」と語る。
-エレミヤ4:4「ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに、私の怒りは火のように発して燃え広がり、消す者はないであろう」。
・割礼を受けない者は救われないという信仰は、初期キリスト教会にも根強く残った。
-使徒15:1-2「ある人々がユダヤから下って来て『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。
・パウロが伝道上で最も苦労したのは、異邦人にも割礼を求めるユダヤ主義キリスト者たちの妨害であった。彼は繰り返し、割礼により人は救われるのではないと述べる。
-ローマ2:28-29「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」。
・パウロはユダヤ人キリスト者を説得するために、創世記17章のアブラハムの割礼に言及する。アブラハムが義とされたのは神の言葉を信じた故であり(創世記15:5-6)、それは彼が割礼を受ける(創世記7:24)前だったではないかと。
-ローマ4:1-11「では、肉による私たちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります・・・どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか・・・アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」。
・この問題は今日でも「洗礼と救い」として教会内で論議されている問題につながる。正教会やカトリック教会、聖公会、ルーテル教会などの教派では、洗礼によって「新たに生まれる」と理解する。他方、福音派は「洗礼による新生(再生)」の理解は異端であるとし、改革派教会においても「洗礼による救い」は異端であると考えられている。私たちバプテストは「救われたしるしとして洗礼を受ける」と理解する。パウロと同じ立場である。
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