すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.人の創造(2:4b−7)

・創世記は2章4節bから新しい物語に入る。1章では光の創造から始まり、天地が創造され、そこに植物や動物が造られ、最後に人間が創造されて物語が締めくくられている。他方、2章では、まず人が土の塵から創造され、神の命の息が吹きこまれて生きるものになり、その人のために植物や動物が創造されたと描かれている。文献学は、創世記2章は1章のP資料(祭祀資料)とは異なるJ資料(ヤハウェ資料)からなると示す。創世記1章では神は「エロヒーム」(新共同訳「神」)、2章では「ヤハウェ・エロヒーム」(新共同訳「主なる神」)と神名が異なる。
・紀元前10世紀、ダビデ・ソロモンの王国繁栄期、国が繁栄し豊かになったが、人々は驕り高ぶり、自分たちだけで何でもできるように思い、人間の力を過信するようになってきた。その人々に、創世記2章の著者は、「人間は土の塵から造られ、神が命の息を吹き入れて下さって初めて生きる者となった」と語る。
―創世記2:4b-7「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。
・人間は土の塵で造られ、神がその命の息を取り去られれば死んで土の塵に返っていく、そういう存在でしかない。今の命や繁栄も、神が与え、保って下さっているからある、そのことを忘れるなと警告される。
―ヨブ記34:14-15(口語訳)「神がもしその霊をご自分に取りもどし、その息をご自分に取りあつめられるならば、すべての肉は共に滅び、人はちりに帰るであろう」。

2.人間のために園が設けられ、命の木と善悪を知る木を置かれた(2:8−17)。

・「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」。創造前の世界は土を耕す者がいないため荒涼たる世界であった、故に神はその世界に人を創造されたと創世記2章は語る。土=アダマで創られた故に人はアダムと呼ばれる。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような存在であることを示す。人は自分の命を左右することも出来ないし、死ねば土に返って行く。しかし、その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれた。神の息が吹き込まれた故に、人は生きる者になった。人は神の息、霊が共にある限り人ですが、霊が取り去られると動物に落ちてしまう存在だとここに言われている。
・そのような人に、神は園を耕し、管理する業を委ねられた。この園がエデンの園=パラダイスと呼ばれる。エデンとはヘブライ語で「快楽」、アッカド語で「園」という意味である。後代にはエデンの園がパラダイス、神が存在する地上の楽園とされていく。
−創世記2:8-15「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた・・・主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。
・「人がそこを耕し、守るようにされた」、耕す=アーバドは「仕える」という意味を持つ。仕える人がいなかった時、大地は何も生まなかった。人が地に働きかけ、地を耕して行く時、地は収穫をもたらす。耕す時(cultivate)、そこに文化(culture)が生まれていく。ここに聖書の労働観がある。人は働くために創造され、使命感をもって働く時こそ、本当に生きる存在となるとの主張だ。ところが、人が罪を犯す事により、労働に呪いが入ってきた(創世記3章)。労働に喜びと苦痛という両面があるのは事実だが、本来の労働は祝福であったことを銘記すべきだ。宗教改革者ルターは労働を「ベルーフ=召命」と呼んだ。人は労働=職業を通して神の召命に応えていく。創世記2章を根拠とする宗教改革者の職業観が、現代の資本主義社会を生んだともいわれる(M.ウェーバー・資本主義の精神とプロテスタンティズム)。
−創世記3:17-19「神はアダムに向かって言われた『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る』」。

3.人の助け手として女が造られた(2:18−25)

・人は創造されたが、共に生きる者がいなかった。そこで神は言われる「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)。最初に動物が創造されたが、動物はその役割を果たさなかった。なぜなら動物は人との人格的関係を持てないからだ。
−創世記2:18-20「主なる神は言われた『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』。主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」。
・人と向き合う存在=他者として造られたのが、女であったと創世記は語る。
-創世記2:21-22 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られ(た)」。
・人と共に生きる者として女性が創造された。そして「男=イシャー」から取られたものだから「女=イシュと呼ぼう」と名づけられる。一つの体から造られた故に、男と女は本能的に相手を求め合い、その結果として二人は一つになり、それが子という命を生み出していくという主張がここにある。
-創世記2:23-25「人は言った『ついに、これこそ、私の骨の骨、私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから』。こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」。
・創世記2章は紀元前10世紀のダビデ・ソロモン時代に書かれた。当時の支配階級は一夫多妻で、ダビデもソロモンも多くの妻を持っていた。その中で創世記2章の著者は、人はその妻と向き合って家族を形成するのであり、一夫多妻は人間本来のあり方ではないと批判している。当時の家父長制社会では女性は子を生むための道具と考えられ、子が生まれなければ別の女を娶っても良いとされていた。そのような風潮に対し、彼は夫婦関係こそ社会の基本単位であって、離婚は創造の秩序を破るものだと主張している。今から3000年前に夫婦関係こそ家族の基本であるとの主張があったことは驚くべきことだ。
―マルコ10:6-9「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。
・女が造られることによって、人は一人ではなく、共に生きる者となった。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していく。人は「善悪の知識の木からは食べてはならない」と命じられたが、その禁じられた実を食べ、神から譴責される。その時、人の犯した最大の罪は、戒めを守らなかったこと以上に、神が与えて下さった恵みを捨てたことだ。人は妻が与えられた時「私の骨の骨、肉の肉」と呼び、これを愛した。しかし、自分の責任を問われるようになると人は「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と責任を妻に転嫁する。やがて責任を神につき返す「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった」。「私が悪いのではない、あなたが悪い」、その主張は他者を捨てると共に、神をも呪う。神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれ、人は楽園から追放され、荒れ野のような世を生きなければならなくなった。その荒れ野をますます生きにくいものとしているのは、私たち一人一人が持っている罪だと創世記2章を書いた著者は、繁栄に酔いしれ傲慢に陥っていた同時代人を批判している。
-創世記3:23-24「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」。
・私たちが創世記2章の物語を、単なる神話として聴く時、それは現在の私たちの生き方とは関わりがない、物語となる。しかし、私たちが創世記を、イスラエル人の信仰告白として聴く時、すなわち人は何故他者を愛することが出来ないのか、人は何故「骨の骨、肉の肉」と呼んだ最愛の人さえもいざとなれば裏切るのかという私たちの本質が問われ、本当の自分の姿、すなわち罪が明らかになる。そして「神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれてしまう」ことを知り、関係の正常化、罪からの赦しと解放を求めるようになる。私たちは自分たちが今楽園の外にいることを知るからこそ、教会に集まり、創世記を共に読む。そして「他者と向き合う」ことができる存在に変えられるように、主なる神に祈る。
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