すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.何事にも時がある

・コヘレト3章2節「生まれるに時があり、死ぬるに時がある」は、有名な言葉だ。私たちはこの世に生を受け、喜びや悲しみ、成功や挫折、様々の経験をしながら、年老い、やがて死んでいく。その時々に決定的な時を私たちは体験する。
−コヘレト3:1-8「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」。
・時の中には私たちが決定できる時もあるが(求める時、保つ時等)、多くの時は私たちの意思を超えた所で決定される。人生の大きな枠組である「生まれる時、死ぬ時」を、私たちは選ぶことは出来ない。私たちの時を支配しているのは私たちではなく、別の存在だ。私たちはそれを「神」と呼ぶ。私たちは生きているのではなく、生かされている。しかし私たちは生かす主体の神の業を「見極めることは許されていない」。
−コヘレト3:9-11「人が労苦してみたところで何になろう。私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」。
・神は人間に「永遠を思う心」を与えられた。しかし私たちが見ることが出来るのは過去と現在だ。過去と現在から将来を予測しようとしても将来は分からない。だから「人間にできることは与えられた現在を精一杯生きることだ」とコヘレトは語る。
−コヘレト3:12「私は知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」。
・人は明日のことはわからない。そのことを不安に思ったり、嘆くのではなく、「明日のことは主に委ねよ」とイエスも言われた。
−マタイ6:34「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
・姜尚中氏が洗礼を受ける契機になったのはコヘレト3章の言葉だった。彼は1950年熊本に在日二世として生まれ、早稲田大学政治学研究科博士課程を経て、ドイツ・エアランゲン大学に留学、1981年帰国したが(31歳)、就職先がなく、非常勤講師やアルバイトをしながら働いていた。彼はNHKのインタビューの中で語る「僕は主夫業そして非常勤をやりながら、今でいう非正規雇用に近い不安感の中にあった。その時、上尾合同教会の土門一雄牧師に私淑して洗礼を受けた。その中で彼が私に残した言葉は、『すべてのわざには時がある』という言葉だった。牧師は僕の姿を見て焦っていると思ったのでしょう。だから『すべてのわざには時がある、植えるに時があり、生まるに時があり、死ぬるに時があり、そして踊るに時があり、笑うに時があり、悲しむに時がある』と語った。ここから教えられたことは、今の自分は不遇かもしれないけど、必ず時が巡ってくるのではないだろうかと。その時のためにただ待つのではなくて、やっぱり日々の『今ここ』を頑張るしかないと。その後、土門牧師の紹介でICU・国際基督教大学の助教授という定職をようやく得ることができた。37歳の時だった」。
・「必ず時が巡ってくる」、この「時」は、ギリシア語「カイロス(神が定めた時)」だ。当たり前の時間の流れ(クロノス)の中に、突然に神の時(カイロス)が突入する。姜尚中氏はその時を準備しながら待った。イエスが「神の国は近づいた」として宣教を始められたのも、このカイロスの時を指す。
−マルコ1:14-15「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。

2. 残された時を生きる

・人には神から与えられた時がある。その時は死によって限界づけられている。
−コヘレト3:14-15「私は知った、すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる」。
・正しく生きようとしても、この世の現実は不条理に満ちている。正義を行うべき司法の場にも、行政の場にも悪がある。しかし人はやがて神の裁きを受ける。だから悪の存在に絶望しない。
−コヘレト3:16-17「太陽の下、更に私は見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。私はこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」。
・若杉洌「原発ホワイトアウト」を読んだ。著者は匿名の現役官僚である。2011年の福島原発事故により、一時中断していた原発が再稼働される中、厳寒の冬の新潟で送電線倒壊事故が起こり、新潟・柏崎原発での核メルトダウンが再び起きる過程が小説の形で書かれている。原発事故後、実質的に何の安全強化もなく、原発の再稼働が国民合意なしに進められている現実に対する告発の書だ。このような書が現役官僚から出されることは日本社会の健全性をうかがわせるが、同時にこの書が出ても原発再稼働という現実の流れは何も変わらないことに空しさも感じる。この空しさの中で、「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」言を信じ、そのために今できることをする。

3. 人生の意味は何だろう

・コヘレトは人間を特別な存在とは見ていない。人間もまた動物であり、時が来れば死ぬ。そこには人間と動物の差異はない。神は天にあり、人は地にある。その限界を知れとコヘレトは語る。
−コヘレト3:18-20「人の子らに関しては、私はこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべては一つの所に行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る」。
・コヘレトは言う「死んだ後、人間は天に上り、動物は地に果てるというのも、人間の勝手な思い込みだ。死後、どうなるのかについては、誰にもわからないのだ」と。
−コヘレト3:21-22「人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだと私は悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう」。
・人が死後の生を信じることが出来ない時、人生の意味はなくなる。だからコヘレトは「空しい」とため息をつく。私たちはイエスの復活を信じる。だから不安の中でも生きることが出来る。
−ヨハネ11:25-26「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。 生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。
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