すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.すべては空しい

・コヘレト書はソロモンが書いたとされる智恵の書である。しかし、実際は紀元前3世紀に書かれ、ソロモンの名前をかぶせられたと思われる。ヘブル語でコヘレト=伝道者であり、かつては伝道者の書と呼ばれた。コヘレト書を貫く中心の言葉はヘブル語へベル=空であり、全12章の短い文章の中に33回も用いられている。
−コヘレト1:1-2「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」。
・紀元前3世紀、ヘレニズム文化が押し寄せ、伝統的な信仰は揺らぎ、新しい光が見えない中で、懐疑的な思想が生まれた。コヘレトは語る「人は労苦するが、その労苦に意味があるのか。死ねばすべては終わりではないか」と。著者は人間の営みはすべて無意味であり、神の摂理などなく、来世も信じていない。関根清三は言う「コヘレトは現代のニーチェだ。そこに在るのはニヒリズムだ」と。
−コヘレト1:3-4「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地」。
・人は生まれ、やがて死んでいき、彼の労苦したものも来世には持っていけない。しばらくすれば彼の生きた痕跡はなくなる。どこに人生の意味があるのか。すべては同じことの繰り返しではないかと著者は語る。
−コヘレト1:5-7「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」。
・内村鑑三は「後世への最大遺物」という講演をし、後に一書にまとめた。彼は言う「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。では何をこの世に残していこうか」。コヘレトの空しさと内村の最大遺物を残したいという気持ちはどこで分かれるのか。「永遠の命を信じるか、否か」であろう。

2. すべてはもの憂い

・かつてユダヤの信仰者は世界を神の創造の奇跡として賛美した(詩篇19:2-5)。しかし今のコヘレトは世界を讃美出来ず、すべては「もの憂い」とうそぶく(コヘレト1:8-9)。両者を比べてみよう。
−詩篇19:2-5「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」。
−コヘレト1:8-9「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」。
・「太陽の下、新しいものは何もない」とコヘレトは語る。歴史は繰り返しであり、過去のことをだれも気にせず、将来についての夢もないと彼はうそぶく。日本でもかつての高度成長期には人々は「豊かになる」という夢を見た。しかし1990年代にバブルがはじけ、ゼロ成長時代に入ると若者は夢を見なくなった。将来を夢見ても実現可能性が低いからである。現代の若者はコヘレトの言葉に共感出来るかもしれない。
−箴言1:10-11「見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい」。

3. 智恵が深まれば悩みも深まる

・知者は人間を観察し、良い人生、成功した人生を送るにはどうしたら良いかを探求した。その結果、箴言等の処世訓が生まれた。しかし次の世代のコヘレトは、「人生に意味を求めるのは無益な作業だ、わからないのだから」と突き放す。
−コヘレト1:12-14「私コヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。私は太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」。
・人生には私たちには支配できない多くの事柄、変えたくとも変えられない事柄があるとコヘレトは言う。
−コヘレト1:15「曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない」。
・コヘレトはあくまでも虚無的である。彼は人生の可能性を信じていない。
−コヘレト7:13 -15「神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ、人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と。この空しい人生の日々に、私はすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」。
・信仰者はそう考えない。変えられないものがあるという現実の中で、できることを求めていく。
−ラインホルド・ニーバーの祈り「神よ、変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。
・コヘレトはいくら智恵を極めても、知識を増しても、何にもならないとうそぶく。
−コヘレト1:16-18「私は心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、私は知恵を深め、大いなるものとなった』と。私の心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」。
・しかし信仰者はそうは考えない。「求めよ、そうすれば与えられる」、それは経験的真理だ。
−ルカ11:9-13「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。
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